第一次雑賀攻め<大阪府編>
経過
天正5(1577)年2月9日織田信長石山本願寺の主力部隊である雑賀衆の本拠雑賀庄を攻撃するために岐阜を出発した。
その軍勢は
織田信忠信雄信孝羽柴秀吉明智光秀荒木村重佐久間信盛細川藤孝筒井順慶など織田軍の中核をなす武将がほとんど参加するものだった。
13日10万もの軍勢が京都を出発した。
同日@男山八幡宮を経て、16日A香庄に到着した。17日一向宗の拠点B貝塚御坊を囲んだ。しかし、籠っていたはずの衆徒は前日夜に船などで脱出していて寺はもぬけの殻だった。それでも織田軍は町中に放火して町は灰燼に帰した。ここで根来衆三緘衆(中郷・宮郷・南郷)が合流して道案内をすることになる。根来衆は一向宗の畿内での勢力を削ぐために信長に協力するため三緘衆は同じ紀州の雑賀庄・十ヶ郷と利権争いで信長に協力を申し出た。
18日C佐野を経て22日D信達に到着した。ここで軍を浜手と山手に分けてそれぞれが雑賀庄を目指すことになった。
3月2日信長はさらにE西に進んでF波太大社に本陣を移し、雑賀攻略軍の報告を待った。
浜手 山手
浜手を進むのは信忠信雄信孝滝川一益光秀藤孝順慶らである。G淡輪城を経て紀州との境目のH孝子峠に向かう。孝子峠付近には雑賀の防衛拠点があったが織田の大軍を見て逃亡してしまった。浜手軍は山中を三手に分かれて進軍、孝子峠を越えていった。 根来衆三緘衆の案内で山手を進むのは秀吉信盛村重らだった。
SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO