| 第一次雑賀攻め<和歌山県編> |
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| 経過 |
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| 浜手 | 山手 |
| 孝子峠を難なく通過した織田軍が最初に囲んだのが@中野城である。いつから包囲したかは不明だが2月28日中野城は降伏した。この城には織田信忠が入って守りを固めた。 3月1日織田軍は次に中野城の西にある鈴木孫一の本拠地A平井政所を攻めた。 |
佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重、別所長治、堀秀政らとB根来衆、三緘衆がこの軍である。 2月22日信達からC山を越えて紀州へ攻め込んだ織田軍はD田井ノ瀬付近から紀ノ川をわたって三緘衆のE領地に入った。織田軍はF雑賀川に沿って南下、雑賀川の東の小雑賀付近に軍を展開した。これに対し雑賀衆は雑賀川に沿った丘陵にG砦を築いて織田の大軍に備えた。雑賀衆の10倍近いといわれる織田軍山手隊は力攻めで何とかなると踏んでいたが巧みな雑賀衆の戦いぶりに雑賀川を越えることができず両軍睨み合うだけだった。 |
| この状況が半月も続いた頃織田信長は雑賀衆に和議を持ちかけた。織田軍の主力が小土豪相手に苦戦しているとの風聞が流れるのを嫌い、さらに背後を毛利に衝かれることを恐れた信長の苦渋の決断だった。雑賀衆も長期にわたって織田軍と対峙することは経済活動が全くできず領地が荒れて何も得るものがないので信長の申し出を拒否する理由は何もなかった。 3月15日この信長の和議に鈴木孫一、土橋平次、岡崎三郎大夫、松田(江)減大夫、宮本兵(平)大夫、嶋本左衛門大夫、粟村二郎大夫の雑賀庄・十ヶ郷のI幹部七名が代表として応じた。内容は今回の騒乱の原因は雑賀衆が信長に敵対したためだからこれに対して詫びを入れるというものだった。雑賀衆にとって理由はどうであれ迷惑な織田軍が去ってくれればよかった。この和議成立を受け信長は佐久間信盛、羽柴秀吉を佐野砦に残し3月21日京へ戻っていった。 |
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