雑賀攻め

-和歌山編-
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経過
浜手 山手
天正5年(1577)2月22日信達を出発し、孝子峠を守る敵を蹴散らした織田軍浜手隊は、数日後には中野城①を包囲、開城させた。続いて3月1日平井城②へ猛攻を加え降伏させ、紀の川を渡り中津城③を包囲した 天正5年(1577)2月22日信達を出発した織田軍山手隊は根来衆④中郷・宮郷・南郷の三緘衆⑤に先導され山⑥を越え、田井ノ瀬⑦を渡り、紀州に侵入した。
紀ノ川北岸の防衛線を突破された雑賀衆最終防衛ライン⑧は、雑賀川の西に南北に連なる丘陵―吹上の峰⑨宇須山⑩東禅寺山⑪弥勒寺山⑫甲崎⑬と本拠雑賀城⑭のすぐ南の玉津島⑮に築いた砦だけとなった。一方の織田軍は山手隊を主力とし、雑賀川の東岸を紀三井寺から北へ布陣して、雑賀衆の砦と対峙した。
先陣を切ったのは堀秀政であった。それを合図に佐久間信盛も兵を雑賀川へ推し進めた。だが思わぬ苦戦を強いられ、両部隊とも退却することになった。これが原因で、織田軍は積極的な攻撃ができなくなり、しばらくにらみ合う事となった。
こう着状態に陥った対雑賀戦の最中、毛利輝元軍播磨に進出したとの知らせを受けた織田信長は、挟撃を避けるため、3月15日⑯雑賀衆と和議を結び、26日鳥取をあとにした。
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