浜手
@中野城―和歌山市中野【MAP】
中野辺りは今より広く深い水路がひらけ、紀ノ川から大きな川船が航行できた。そこにある中野城は、川を利用した戦略物資などの輸送拠点であり、また泉州方面からの侵入者や情報をいち早く把握できる雑賀党の前線基地であった。
2月28日、信長本隊が淡輪まで出張って来た事から中野城は開城を決めた(『信長公記』)らしいが、『下津徳願寺文書』からは内応者が出たため戦いを続けられなくなったと読める。浜手隊の大将織田信忠は、城を受け取った後、ここを本陣と定めた。
【探索のヒント】巨大ショッピングセンター「パームシティ」の北側にあります。この塀の石垣が当時のもので周囲より少し高くなっているのが城の土台を表しています。
【駐車場】パームシティ駐車場
【バス】和歌山バス深山線75「市民体育館前」
@A
BC
A鈴木孫一館(平井城)―和歌山市平井 【MAP】
『信長公記』には平井城攻めは滝川・明智・丹羽・蜂屋・細川・筒井および若狭衆らが行い、その戦いぶりは、雑賀の鉄砲攻撃を防ぐために竹束を装備し、井楼を上げて昼夜問わず猛攻を加えたとある。織田軍の紀の川渡河を防ぐ雑賀方の最終防御地点なので、激しい攻防があったことは想像に難くない。だが『紀伊続風土記』には、平井城は「政所の坪」と呼ばれる孫一の「館」跡と紹介されているので、ここを舞台の戦闘でなく、川を堀とする集落を織田軍が攻めたと考える。
孫一の墓と言われる蓮乗寺前の案内板には、 雑賀城を築城した鈴木佐太夫孫市が、子の豊若丸を分家として平井の地と孫市郎の名を与えた。この平井孫市郎は父の死後、孫市の名を引き継いだ、とする。だが鈴木真哉氏はその著で、『湯河直春宛文書』や『下間頼兼宛文書』で「鈴木孫一重秀」と自ら書き、「雑賀孫市」や「平井孫市郎」を名乗ったことはないし、父とされる佐太夫も実態は不明で、父子関係を後押しする証左はないという。また孫市は粉河寺で藤堂高虎に謀殺された(『紀伊続風土記』)と言われるが、つじつま合わせのため、これを佐太夫にしたり孫一にしたりしている。ついでに豊若丸だが、水戸家に仕えた鈴木孫三郎重朝とする説がある。つまり重秀と重朝が親子であるというのだが、同一人物とみなす説もある。これは重朝が「雑賀孫市」と改名したことに原因がある。
【探索のヒント】 蓮乗寺の西にあった雑木林が城(館)跡で、今はコンクリートで固められた菜園@Aになっています。集落内は道幅が狭く、路駐はできないので、蓮乗寺と第二阪和バイパスの間にあるゴミ集積場を利用しました。館跡を囲むように水路がありますが、集落Bの西にある打手川Cを挟んでの攻防が、『信長公記』にいう戦いと考えられます。
【駐車場】なし ここがお勧め
【鉄道】南海本線「紀ノ川駅」
【バス】和歌山バス六十谷線84「平井」
@A
BC
【寄り道】蓮乗寺―和歌山市平井252 【MAP】
天正10年5月に織田軍が鷺の森を攻めた鷺の森合戦で、孫一は負傷したが、身に付けていた阿弥陀如来のおかげで一命を取り留めた。孫一はそれを守本尊として安置したのが蓮乗寺の始まりというが、蓮乗寺に像を安置して孫一が引き立てたとも言う。いずれにしても、孫一との関係で孫一道場と言われた。蓮乗寺の住職は、平井姓から鈴木に姓を戻し現在まで続いている。
雑賀攻め後の孫一は、毛利の救援軍を援助や、謀反した荒木村重の花隈城防衛に加わって、本願寺の大坂退去まで信長と敵対し続けた。ところが天正9年頃になると、信長と鷺の森の顕如との連絡係として働き、土橋平次暗殺では、織田軍に援軍を求めたりしている。こうした経緯から、本能寺で信長が斃れると、他の雑賀衆の襲撃を逃れるため、雑賀を出奔して岸和田城に逃げ込んだ。この後では秀吉の紀州攻めで、顕如の依頼を受けた孫一が太田城の太田左近に降伏勧告をしたとの記録がある(その逆に太田城や雑賀の城で秀吉軍と戦ったとの記録もある)が、いつどこで死亡したかは定かでない。
蓮乗寺には、「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」銘の五輪塔がある。これが鈴木孫一の墓とする事に鈴木真哉氏は疑問を持っている。その理由は「藤原」とあることで、鈴木氏の本姓は穂積だからである。この他に岡崎御坊にも鈴木孫一の墓があり、「平井住鈴木孫市郎義兼」と彫られ、こちらの方が筋が通っている。だが共に「孫一重秀」でないため、果たしてあの孫一のものかは不明と鈴木真哉氏は書いている。
【探索のヒント】DMCダイキの北、和歌山県道7号粉河加太線(上淡路街道)を挟んだ北側に蓮乗寺@はあります。車ではいけないので、集落のゴミ集積場のスペースに車を止めました。墓Aは、山門を入った右にあります。鷺の森合戦で活躍した孫一が、槍に付いた血を洗ったと伝わる手水鉢Bは、専光寺(和歌山市専光寺門前丁【MAP】)の門を入った右にあります。
岡崎御坊(和歌山市森小手穂【MAP】)にある孫一の墓Cは、本堂の左から入る墓地にあります。こちらも駐車場は狭いので、お寺の裏手の阪和自動車道沿いに路駐した方がいいかもしれません。なおここは、秀吉の太田城攻めの時、土橋平九郎が築城した岡崎土橋城と言われていますが、遺構はありません。
【駐車場】なし
【鉄道】南海本線「紀ノ川駅」
【バス】和歌山バス六十谷線84「平井」
●岡崎御坊
【駐車場】数台分
【鉄道】わかやま電鉄貴市川線「岡崎前駅」
【バス】和歌山バス「岡崎」
@A
【寄り道】浄永寺の板碑―和歌山市直川【MAP】
寺伝によると浄永寺四世道順が、直川門徒衆を率いて石山合戦に参加して戦死。それを供養するために建立されたという。しかし碑文を見ると、1571年(元亀2)に直川門徒衆38人が大坂へ向かう前に建てたものと分かる。生きているうちに極楽往生を願い自らを供養する「逆修講」に参加した38人の決死の覚悟が窺える史跡である。
【探索のヒント】阪和自動車道「和歌山北IC」で下りて県道139号小豆島船所線を右折。最初の信号でまた右折。そのまま北上します。和歌山県道7号粉河加太線(上淡路街道)を越え、2差路を右折後、すぐに左の細い道を登ると右に浄永寺@があります。駐車場はその前にあります。山門を抜けて右に板碑Aがあります。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR阪和線「六十谷駅」
【バス】和歌山バス六十谷線84「来田」
@
AB
B中津城―和歌山市中之島
現在現在の紀和駅からその南の西覚寺付近。雑賀庄の北の要衝で雑賀権太夫が城主といわれる。
『雑賀戦記』によると、雑賀攻めの前年9月、顕如から鈴木孫市一族・岡崎三郎大夫親子・関四郎八親子に宛てて、信長の侵攻に備えるよう書状が届いた。孫一は中洲(津)城に、主だった雑賀衆とその一族、老若男女の門徒衆、浪人を集めた。そのメンバーは、岡崎三郎大夫・三郎次郎・十蔵、土橋平次郎・平三(弟)・平八(甥)、関四郎八郎、遊道斎、島本右衛門、木下甚大夫・文蔵、宮本平大夫、上口刑部、木本左近・左門(弟)、穂出五郎右衛門、乾源内大夫、中島孫太郎・大六(甥)、和歌玄意、三井松遊軒ら総勢8百人にのぼった。孫一はこの一戦は顕如上人のため一命を賭して戦う決意を示し、まず貝塚で織田軍を迎え撃ち、突破された場合は、雑賀城で玉砕覚悟の籠城戦を繰り広げるとの方針を示した。そして陣立てを発表。中津城には、百姓や門徒が立て籠もる事を命じられた。
【探索のヒント】西覚寺@の前はとても狭いので車では無理です。ここは2度訪れたのですが、一度目はパーキングに車を停めてゆっくり探索しました。二度目は風景Aを撮るために行っただけなので駅前Bに路駐しました。駅前はかなり広くなっています。手前の建物が駅舎でその少し向こうの赤い屋根が西覚寺です。
◎紀和駅: 【MAP】
◎西覚寺:【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】JR紀勢本線「紀和駅」
山手


C根来寺―和歌山県岩出町【MAP】
興教大師が開祖の新義真言宗の寺。近畿における勢力拡大を狙った根来寺杉の坊照算は、信長に協力したほうが得と判断して協力を申し出た。根来寺は単なる寺ではなく、発掘により城郭を窺わせる石垣も見つかっている。根来衆についてはこちら
根来寺は泉州や紀州の有力者によって建立された子院をいくつも持っていたが、そのひとつ杉之坊は種子島から鉄砲を伝えた津田算長の弟明算が院主であった。今回の戦いでは、算長の子供監物算正が、信長の命で佐野砦を守った。根来寺には、雑賀衆の土橋氏によって建てられた泉識坊もあった。雑賀衆は、大坂本願寺の傭兵として戦ったことから浄土真宗徒と思われがちだが、紀州での根来寺の力も侮りがたいものだったため、お家安泰を狙って二股をかけていたものも多くいた。
【探索のヒント】観光地である根来寺には当然駐車場はございます。そちらにお停めになってゆっくりと根来寺を堪能ください。
【駐車場】専用駐車場
【バス】和歌山バス那賀「根来」
D太田城―和歌山市太田2【MAP】
日前宮(日前国懸神社)の領地である宮郷は、応仁の乱前後の混乱期に、一向衆と縁の深い雑賀衆に侵食されていた。日前宮は宮郷内に城砦を築いてこれに対抗した。この宮郷内の大領主が太田党で、雑賀衆と再三抗争を繰り広げていた。だが太田党だけでは抗しきれず、根来寺の加勢を仰ぐことが多かった。このような因縁があったため、信長は雑賀攻めの前年の天正4年2月、杉之坊を仲介に三緘衆を味方につけようとした。5月には加勢に同意した三緘衆の大将太田源三大夫に宛て、謝意と武功により恩賞は望みのままとの書状と、領地への乱暴狼藉を禁じる禁制を発給した。これに対し顕如も同時期、三緘衆内の一向宗徒の引き留めの書状を出し、これに応じた者−「大田退衆」と呼ぶ−に雑賀攻め直前の1月24日に感状を送っている。なお、「大田退衆」については、秀吉の天正13年の太田城攻めに際し、城を出た者を指すという説もある。
秀吉は、家康に味方する根来寺・雑賀衆の討伐を開始した。根来寺を焼き討ちした秀吉軍は、その矛先を雑賀衆の老若男女5千人が立て籠もる太田城に向けた。開戦前に秀吉は、顕如−鈴木孫一ルートで城方に降伏を勧告した。しかし総大将の太田左近がこれを拒否したため、秀吉は総攻撃を命じた。堀秀政と長谷川藤五郎がそれぞれ3千の兵を率いて出陣したが、伏兵の攻撃に遭って撤退した。そこで秀吉は、明石則実を奉行に水攻めを決断する。太田城の周囲に巨大な堤が築かれ、そこに紀の川の水が引き込まれた。梅雨も相まってたちまち太田城の周辺は水没した。やがて城にも水が流れ込みだすと、中川藤兵衛・尼ケ崎吉兵衛が船に兵を乗せ城へ接近した。しかし中川隊は船の底に穴をあけられ沈没、尼ケ崎隊は大将吉兵衛が、太田源三大夫に射殺されこの計画は失敗した。このまま両軍はにらみ合いを続けたが、蜂須賀正勝と前野長康の連名で降伏勧告を出すと、非戦闘員が食糧不足に喘いでいる現状を憂いた左近は、これを受け入れ開城した。
【探索のヒント】JR阪和線和歌山駅東口から南へ二筋行って、東へ行った来迎寺@太田城の碑Aが建っています。道幅は狭いのですがお寺の前に路駐するスペースはあります。
【駐車場】なし
【鉄道】JR阪和線「和歌山駅」
【寄り道】小山塚―和歌山市太田2丁目3【MAP】
田井の瀬を渡り始めた堀隊と長谷川隊に対し、堤に身を隠していた太田衆が鉄砲・弓を浴びせかけた。奇襲に混乱する両隊は、渡河を諦め撤退していった。この時、51人の名のある兵が討死した。太田城が降伏した後、秀吉はこの時死んだ人数と同じ51人の首級を要求した。太田左近はこれを受け入れ、左近ら51名が自刃した。その首は17首ずつ、三か所に葬られた。左近を含む太田村の者が葬られたのが小山塚と毘沙門塚で、吉田村の吉田右衛門らは、聖天宮の西に葬られ、一本松と呼ばれた。
【探索のヒント】来迎寺の東隣に小山塚@はあります。太田左近像Aは、JR和歌山駅東口のバス乗り場(【MAP】)にあります。
【駐車場】コインパーキング(和歌山駅周辺は基本100円/時)
【鉄道】JR阪和線「和歌山駅」
*あるコインパーキングは600円/日で25円/時でした *
@A
【寄り道】太田城毘沙門天―和歌山市太田3丁目6【MAP】
空海が全国行脚の途中、音浦山(現花山)の総光寺に自作の毘沙門像を安置したと伝わる。1084年の大干ばつの時、住民がこの像に雨乞いをするとたちまち解消された。この話が朝廷に伝わると、勅命により総光寺に七堂伽藍が建てられた。
信長の雑賀攻めがあった翌天正6年5月、顕如から雑賀党と太田党に援軍要請があった。太田党は信長と気脈を通じていたので、当然これを拒否した。これに怒った雑賀党が太田城を包囲したのである(雑賀一揆)。それは前年の雑賀攻めの遺恨もあるが、雑賀党が太田党の宮郷を度々侵食するため、百年前から両者が争っていたという背景もある。この時、雑賀衆に火を掛けられた総光寺は灰燼に帰した。総光寺縁起には、寺を焼く炎の中から、毘沙門天が太田城(太田村の竹藪)へ飛んで行ったとある。この後、毘沙門天は城の守護仏となったとある。
【探索のヒント】小山塚の前の道を東へ、信号を越えた最初の角を左へ曲がると左側に鳥居@があり、その奥に祠Aがあります。
【駐車場】なし
【鉄道】JR阪和線「和歌山駅」
@A
【寄り道】太田城大門―和歌山市太田【MAP】
現在の来迎寺・玄通寺を中心に東西250m南北200mが城域で、その周囲には堀がめぐらされていた。その東に大門があった。城は破却されたが、大門は功徳寺(吹屋町)へ移築され、現在は大立寺(橋向丁【MAP】)の山門となっている。
【探索のヒント】来迎寺から北東にある和歌山太田郵便局の北にある橋辺り@に大門がありました。かつては大門橋と彫られた欄干がありました。大立寺Aは和歌山県道138号和歌山野上線(三年坂通り)と県道135号和歌山海南線(大新通り)の交差する「橋向丁交差点」の北にあります。
●大立寺
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR阪和線「和歌山駅」
【バス】和歌山バス湊線・築港線62「大橋」
@
AB
E風吹峠と雄ノ山峠
山手を進んだ織田軍のルートは確定されていない。根来衆の道案内を受けたので根来街道をとったという説と最短距離で紀州に入れる熊野古道説がある。
【探索のヒント】風吹峠@のある根来街道は、泉南市樽井と岩出市宮をつなぐ大阪府道63号泉佐野岩出線のです。今は通行止めの旧風吹トンネルの辺りです。大阪から行くと新風吹トンネルの手前の信号から旧道へ入れますが、特に表示があるわけではありません。
雄ノ山峠Aは、大阪府道64号和歌山貝塚線にあります。こちらは和歌山県側へ下り出すと旧街道らしく、細くてうねうねしています。峠の表記はありませんが、阪和自動車道と並行する箇所で唯一の駐車スペースの大阪寄りが峠です。こちらも峠の表記はありませんが、駐車スペースには峠の不動明王Bがあります。
◎風吹峠:【MAP】◎雄ノ山峠:【MAP】
【駐車場】なし
@A
B
F田井ノ瀬―和歌山市【MAP】
紀ノ川にある中洲が田井ノ瀬。和泉山脈を越えてきた織田軍の目前に広がる紀ノ川を渡るにはここが一番川幅が狭い。今は中州は緑地化されて畑が広がる。
【探索のヒント】大阪方面から紀の川に沿った道を行くと北田井ノ瀬橋@があって中州Aに渡れます。中州には駐車場があってそこに車を停めればこの付近の探索はゆっくりできます。中州から対岸の和歌山市内にけてかかっているのが南田井の瀬橋Bです。中州は雑草が多く私は散策後目が痒くて痒くて真っ赤になりました。アレルギーのある方はマスクにゴーグルを。
【駐車場】中州に駐車場
【鉄道】JR和歌山線「田井ノ瀬」駅
【バス】和歌山バス那賀「中州」 
@
A
G雑賀衆の砦群と対峙する織田方
雑賀荘へ攻め込むには、東の雑賀川を渡るか、河口の玉津島から上陸する必要があった。雑賀衆は雑賀川と河口に壺を沈め、縄を張り巡らせた上、紀の川の水を引き込み水位を上げ、さらに岸には柵と逆茂木を設置して、容易に織田軍が雑賀荘に上陸できないようにした。対岸に布陣する織田軍は本来、川の水位が下がったところで、攻めかかる手はずだったが、この日に限りそれが起きなかった。焦れた織田軍から堀秀政隊が先陣を切って川へ乗り入れた。これを見た佐久間信盛隊があとに続いた。勢い込んで川へ入ったものの、川底の仕掛けに人馬とも足を取られ身動きが取れなくなったり、川を渡り切った者も岸の柵に前進を阻まれた。川の中でもたつく織田軍に対し、雑賀衆の砦から次々とに鉄砲が撃ちかけられた。射殺される者、溺れる者と先陣部隊は壊滅状態となった。この後、織田軍は攻撃を仕掛けることができず、双方にらみ合う事となった。
【探索のヒント】雑賀方の砦群@は高津子(章魚頭姿)山の展望台から、織田方Aの方は和歌山県立医大の横からの撮影です。
【バス】和歌山バス市内雑賀崎循環線33「新和歌遊園」
@
AB
H吹上の峰―和歌山市一番町【MAP】
吹上の峰は岡山とも呼ばれ、紀の川河口にできた三角州の海岸砂丘の北端を指す。現在は和歌に歌われた吹上の浜の東に見える丘陵は、結晶片岩がむき出しの荒々しい姿から虎伏山とも言われた。天正13年の秀吉の紀州攻めの時も、雑賀衆が立て籠もった。土橋平次郎・平八、松田源三大夫、嶋本左(右)衛門大夫、宮本平大夫、藤井太郎右衛門と5百の兵が守る。彼らは紀の川から雑賀川へ水を引き込んで、水位を上昇させた。
【探索のヒント】現在の和歌山城@が建っている所です。海上から見た山容が虎が伏した姿に似ているという事で虎の銅像(二代目)Aがあります。
【駐車場】専用駐車場他
【電車】JR紀勢本線・南海本線「和歌山市駅」
      JR阪和線「和歌山駅」
【バス】関西空港交通和歌山発着「市役所前」「県庁前」
     和歌山バス湊線・築港61「県庁前」「岡町」
@A
【寄り道】原見坂―和歌山市鷹匠町5丁目【MAP】
かつては和歌川の向こうに日前宮、花山を一望できたという。『紀伊国名所図会』には、ここを舞台にした幽霊伝説が紹介されている。江戸時代初め、浅野家家臣渋谷文治郎が原見坂で出逢った娘と恋仲になるが、その娘が管領畠山政長の娘仙之前の幽霊と分かる。正体を見破られた娘は、文治郎は細川勝元の次男右衛門助政行の生まれ変わりで、二人は許婚であったが、結婚前に自分は病死したと打ち明けた。政行を思う娘は幽霊となり、百年以上、政行を待ち続けた。そしてようやく思いを遂げられたが、正体が分かった以上、一緒には居られないと姿を消したという話である。
【探索のヒント】屋形通り「島崎町2丁目交差点」を西へ寺町通りへ入って三つ目の辻を南へ入ります。二股の左を進み(右は禅林寺)、次の二股の右が原見坂@です。文字が薄れた標識が立っています。登りきっても東側Aは見下ろせますが、それ以外は何も見えませんでした。
【駐車場】なし
【バス】和歌山バス塩屋線56「鷹匠町5丁目」
【バス】
@A
BC
I宇須山砦―和歌山市宇須4丁3【MAP】
宇須は宇津とも書く。この辺りが昔海で、水位が下がり名残として雑賀川が残った。宇須(宇津)は川の内側にある土地という意味から、「内」か変じたものと言われる。
【探索のヒント】国道42号線「高松交差点」を東へ。 スガイ化学(株)に付き当る手前の小山@が宇須山砦です。突当たりの左側に浄信寺があり、空き地が駐車場のように見えるのですが不明です。小山は墓地Aで、山頂まで墓が並んでいますB。城跡を示すような者はありませんが、何カ所も平たん地Cがあります。木がなければ、東の展望はよいと思います。
【駐車場】なし 空き地あり
【バス】和歌山バス塩屋線56「南宇須」
J東善寺山砦ー和歌山市東高松・打越町【MAP】
弥勒寺山の北にある標高45.3メートルの打越山のこと。実はここが砦跡という確証はない。『紀伊国名所図会』に載っていることから郷土史家の水島大二氏が推定している。 原見坂から宇須山、東善寺山にかけて、鈴木孫一、乾源内大夫、岡崎三郎大夫・三郎次郎、木村甚大夫・文蔵・左近・左門、中島孫太郎・大六と那賀郡・海士郡・名草郡の有志3千が布陣した。
【探索のヒント】山の登り口の横に車を停めました。細い道でしたがあとりあえず停めれました。でも秋葉山公園駐車場をお勧めします。砦とは断定されていないと市立博物館の学芸員の方は言っておられました。頂上へ行くまでに意識的なのか見晴台のようなものがあります。山頂は周囲が木が茂っていて下界は見にくいですがきっと見晴らしはいいと思います。
【駐車場】なし
【バス】和歌山バス本町線・市内雑賀ア循環線「高松」
@A
BC
DE
K弥勒寺山砦―和歌山市秋葉町【MAP】
日蓮宗との戦いに敗れた本願寺10世証如は、身を寄せていた黒江御坊(海南市)では守りが弱いという事で、天文19(1550)年この山へ御坊を移し、ここを拠点に布教を行ったので弥勒寺山と呼ぶようになった。天文23年39歳で証如が死去。当時12歳の顕如が11代宗主となる。永禄6(1563)年弥勒寺山を訪れた顕如は、鷺の森へ御坊を移すことを決めた。
戦いではここに本陣を置いて、的場源四郎が守る。
【探索のヒント】弥勒寺山@には秋葉山公園やプールやフィットネス施設があります。駐車場は、出庫時にフロントに申し出れば無料になります。公園への登り口には、城跡を示す碑Aがあります。だらだらと坂を上がると遊具のある公園になっていますが、石積みB土塁Cが残っています。広場の小高くなった丘D、顕如の碑Eや雑賀攻めに関する説明看板があります。
【駐車場】専用駐車場
【バス】和歌山バス本町線・市内雑賀ア循環線「秋葉山」
@A
BC
L甲崎砦―和歌山市和歌浦東1丁目7【MAP】
関掃部大夫・四郎八郎・遊道斎、今井権七、渡辺藤左衛門(のち花隈城に籠る)、が5百の兵で立て籠る。ここには井楼を建てていた。
【探索のヒント】秋葉山公園のある弥勒寺山の東南の端@が砦跡です。秋葉山梅林を通りぬけ、秋葉山配水池の前を通り、正面の雑木林に入ります。稜線に沿った踏み跡Aが左に曲がりながら続いています。やがて行き止まりになった所Bが稜線の端です。非常に狭く井楼を建てるような場所はここにはありません。ただここへ来る途中に金網が設置された場所Cがあって、ここの方が広く砦の跡っぽく感じました。
【駐車場】秋葉公園駐車場
【バス】和歌山バス本町線・市内雑賀ア循環線「秋葉山」
【寄り道】矢の宮神社―和歌山市関戸
賀茂建津之身命吉井駒神を祀る。建津身命は別名八咫烏命という。建津身命は矢田姓の祖神魂命の孫であるため、その社は矢の宮と名付けられた。この八咫烏は熊野権現の使いとされ、熊野三党を祖先とする鈴木氏が八咫烏を旗印とし、それを祀る矢の宮神社を氏神とした由縁である。
3月3日いよいよ織田軍が干潮を待って雑賀川を渡って来るという話が雑賀庄の民衆の間に広まった。比叡山の焼き討ちや越前、長島の一向一揆殲滅を知っている雑賀の人々は恐れおののき神の助けを乞うた。そして明けて3日。川の水位は下がらず織田軍は川を渡ることができず雑賀衆は九死に一生を得た。このとき鈴木(雑賀)孫一が喜び神に感謝して踊ったのが今に伝わる「孫一(雑賀)踊り」の起源とされている。
【探索のヒント】
【駐車場】秋葉山公園専用駐車場
【バス】和歌山バス本町線・市内雑賀ア循環線「秋葉山」
@A
BC
M雑賀城―和歌山市和歌浦中【MAP】
『南紀士族旧事記』に鈴木佐大夫の城と紹介されている。佐大夫が海南市の藤代から移って来て築城したと説明されることが多いが、鈴木氏が雑賀へ移って来た時期に関してすら正確なことは分かっていない。また佐大夫を孫一と考える説がある。『十寸穂の薄』や『紀伊続風土記』では、佐大夫は平井孫市郎重秀の父と言うだけで実名並びに事績は不明である。そのため他の史料と整合性を取るため、佐大夫=孫一説が考えだされた。なお佐大夫は天正13年、粉河城で藤堂高虎に謀られ、自殺(毒殺とも)したとされる。
【探索のヒント】二度行きました。場所は消防署の隣の公園の後ろの玉津島の一つ妙見山@で、秋葉山公園からも望めますA。山上には妙見堂Bがあります。非常に狭い所です。背後は和歌浦Cが迫り、後堅固の城と言った感じです。
【駐車場】なし
【バス】和歌山バス本町線・市内雑賀ア循環線「和歌浦」
@A
BC
【寄り道】鈴木屋敷―海南市藤白【MAP】
鈴木氏は本姓を穂積氏といい、榎本氏・宇井氏と共に熊野三党と言われ、熊野新宮(熊野速玉大社)に仕える身分であった。平安末期(藤白神社伝承では1150年)、熊野から藤白へ鈴木一族が移って来た。通常鈴木姓のルーツは、この藤白鈴木家とされるが、『紀伊続風土記』には、新宮の鈴木又左衛門が鈴木家の本家だったが、江戸後期に断絶と記している。なお藤白鈴木氏は、1942年に断絶している。鈴木氏が熊野からはるばる藤白までやって来た理由として、熊野詣を快適にするために設けられた熊野九十九王子の中でも、重要とされる五体王子の一つである藤白王寺社(他は泉州籾井、紀州切目・滝尻・発心門)の管理と熊野街道の要衝の監視という役割を担っての事と考えられている。
【探索のヒント】熊野一の鳥居跡@から小栗街道(熊野街道)Aを南へ500m行くと右手に案内板があります。牛若丸が熊野往還の途中にここに滞在し、鈴木三郎重家と亀井六郎重清と出あったことで有名で、屋敷跡Bには義経ゆかりの弓掛松が植わっています。崩れかけの建物の横を抜けると曲水泉と言う庭園Cがあります。駐車場は鈴木屋敷跡の西側にあります。国道42号線からの方が入りやすいと思います。
【駐車場】あり
【鉄道】JR紀勢本線「海南駅」
【バス】和歌山バス亀川線「藤白」「藤白南」
 @A
BC
DE
N玉津島【MAP】
雑賀川河口には、妹背山・鏡山・奠供山・雲蓋山・妙見山(雑賀城)と呼ばれる島があり、一見連なる玉のように見えたことからこの島々の総称を玉津島と呼んだ。その後、妹背山を除く島は陸続きとなった。
上口刑部・穂手(出)五郎左衛門・和歌玄意・三井松(遊)軒の8百人が守る。
【探索のヒント】玉津島@の各山頂からは紀三井寺方面が一望Aできます。既述の雑賀城のあった妙見山は省いて、国道42号線「和歌浦交差点」から時計周りに、左に妹背山B【MAP】 、塩竃神社があるのが鏡山C【MAP】、玉津神社から登れる奠供山D【MAP】、雲蓋院の背後が奠蓋山E【MAP】となっています。それぞれの山は登ることができます。駐車場は玉津島神社にありますが、気を使わないで済むので、片男波公園駐車場をお勧めします。
【駐車場】片男波公園駐車場
【鉄道】JR紀勢本線「紀三井寺駅」
【バス】和歌山バス和歌山市内線4「玉津島神社前」「不老橋」「曙橋」
@A
BC
【寄り道】雑賀崎城―和歌山市雑賀崎【MAP】
雑賀の地は、農耕に最適とは言えないし、資源があったわけでもない。にも拘らず大名並あるいはそれ以上の鉄砲を所有していた。その財力は、雑賀海賊による瀬戸内海や遠くは薩摩防ノ津まで出向く水運業によるところが大きい。雑賀崎城は、そうした拠点のひとつであったと考えられる。現在、その遺構は不明であるが、大坂本願寺を退去した教如が身を隠した上人窟が雑賀崎にあることから、ここに何らかの施設があったと考えても不思議でないと、和歌山市立博物館の学芸員の方が仰っていた。
【探索のヒント】『定本和歌山県の城』をみると雑賀崎隧道の上の山頂部@Aになりますが、遺構は発見されていません。昔は雑賀崎灯台から上人窟Bへ遊歩道がありましたが、今は通行できません。しかし雑賀崎漁港に埋立地ができて、その防波堤の西の端からかろうじて見ることができます。この他、雑賀崎には江戸末期に作られた番所が公園となった番所庭園Cがあります。
【駐車場】埋立地に駐車可能
【バス】和歌山バス市内雑賀ア循環線「雑賀崎遊園」
@A
BC
D
P雑賀荘・十ヶ郷の有力者
織田方との和睦の雑賀方代表者は、鈴木孫一(重秀)・栗村三郎大夫・嶋本左衛門大夫(吉次)・宮本(湊)兵(平)部大夫(高秀)・松田(江)源三大夫(定久)・岡崎三郎大夫・土橋若太夫(守重)である。嶋本は円覚寺、宮本は善能寺、松田は万福寺、岡(崎)は念誓寺または常福寺(岡崎三郎大夫について、岡崎荘常福寺の系図によると四代教恵としているが、武内義信氏は、岡崎荘は中郷にあり信長側であった可能性が高い点、雑賀一向衆列名史料には岡崎の道場として常福寺の名前がない点から、念誓寺の岡了順(岡三郎大夫と同一人物か)の可能性を指摘する)の前身の道場主で年寄衆と言われる有力者たちである。この年寄衆が各々の道場の門徒衆を率いて戦いに参加した。顕如の大坂退去に反対した教如は、この四人衆に徹底抗戦を呼びかけている。一方、鈴木(孫一道場の成立はこれより3年後)・栗村・土橋は、道場主ではなく、地縁や一族の者を率いてこの戦いに参加した。このように一口に雑賀衆と言っても、信徒組織と惣村組職とがあり、両者は全く別のものであった。
紀州の浄土真宗は、南北朝時代に仏光寺派の性応寺と真光寺によって広められた。それに遅れて本願寺派の浄光寺が紀ノ川下流域に、蓮如はさらに遅れて名草郡清水を拠点に布教を始めた。雑賀ではこの四派(方)の末寺が大半を占め、これに属さない末寺は「方はつれ(外れ)」と呼ばれた。先の年寄衆は、嶋本は真光寺方、宮本は性応寺方、松田は直末、岡は浄光寺方の道場を開いていた。彼らが各方の代表となったのは、社会的地位が関係していると武内義信氏は述べておられる。すなわち嶋本と宮本は地頭職、松田は南海大明神別当職、岡は城主という具合である。
【探索のヒント】万福寺@【MAP】は県道7号粉河加太線の「中松江交差点」の西にあるセブンイレブンの横の道を南へ入り、南海加太線を越え、西松江自治会館を過ぎた右に入口があり、横に駐車場があります。道は狭いです。覚円寺A【MAP】は難儀しました。国道26号線「狐島交差点」の南にある歩道橋の北側か南側に西へ入る道があり、これが合流した先の右に円覚寺の駐車場へ行く細い道があります。この道が本当に狭いので、私は少し南のくら寿司などがある駐車場を利用しました。善能寺B【MAP】も入口横に駐車場はあります。けやき通りに面したお寺の集まった一角にあります。念誓寺C【MAP】は三年坂通りから少し入った所にあります。駐車場は見当たりませんでした。私事ですが、私の叔母さんがこの目と鼻の先に住んでいて、子供の頃遊びに来た時、この前を通ってオークワへ買い物へ行ってました。常福寺【MAP】は岡崎御坊のそばにあります。駐車場はありますが、こちらも道幅が狭いので、車によっては阪和自動車道沿いに留めた方がいいかもしれません。
【駐車場】専用駐車場または路駐
●万福寺
【鉄道】南海加太線「中松江駅」
【バス】和歌山バス市深山線74「木の本住宅前」
●覚円寺
【鉄道】南海加太線「東松江駅」
【バス】和歌山バス藤戸線372「狐島宮前」
●善能寺
【鉄道】南海本線・JR紀勢本線「和歌山市駅」
【バス】和歌山バス藤戸線372「小人町」
●念誓寺
【鉄道】JR阪和線「和歌山駅」
【バス】和歌山バス湊線・築港線62「雑賀道」
●常福寺
【鉄道】わかやま電鉄貴志川線「岡崎前駅」
【バス】和歌山バス岡崎線96「岡崎」
@A
【寄り道】土橋城
土橋氏は代々根来寺の泉識坊門主を努める一方、大坂を退去した顕如に鷺ノ森の領地を寄進―これについては孫一または佐武伊賀説あり―するなど、雑賀衆において鈴木氏に次ぐ勢力を持っていた。だがその出自となると村上源氏を祖とし、越前大野郡から紀州に移住して来たという伝承しかない。
天正10年正月23日、土橋若大夫(平次守重とも)が騎馬で鷺ノ森へ向う途中、宇治郷の橋の上で粟(栗)村新次郎・友之介に斬り殺された。この背後で糸を引いていたのは、孫一と土橋兵大夫・小左衛門(彼らは若大夫の娘婿)である。孫一は若大夫に遺恨(継父を若大夫に殺害されたという)を持っており、前年若大夫と孫一の間では争いがあったと言われるが、同年8月23日付の顕如から孫一への書状は、十ヶ郷木之本荘に絡んだ対立があったことを窺わせる。ただ孫一以外に土橋一族が関わり、さらに土橋城まで攻めていることから見ると、単なる遺恨ではなさそうである。孫一は織田軍の支援を受け、土橋城を攻めた。この援軍が孫一が持ちかけたものか、信長が孫一に命じたものかは不明である。いずれにしても信長は、岸和田城主織田左兵衛信張を援軍に差し向けた。
土橋方は若大夫の息子たち平次郎・幸物(仏)十郎次郎・平三郎重房・平次郎守国らに泉職坊が加わって、土橋城に立て籠もった。孫一と城との間で鉄砲戦が繰り広げられる中、織田軍が城攻めに加わった。この事態を治めるため、顕如は両者に停戦を呼びかけるが、孫一は全く応じなかった。やがて信長の命により小倉監物と言う者が討取られると、土橋方は一気に戦意を無くした。2月8日平之丞・平次兄弟(上記の誰を指すのか不明)は、城を脱出し熊野矢ヶ谷村に逃れた。泉職坊も30騎を率いて夜陰に紛れて脱出したが、斎藤六大夫の追撃を受け、泉職坊は討取られ、その首は安土へもたらされたという。城に残された若大夫の息子たちは、顕如の懇願により助命された。この後、2月24日まで信張が城に留まり、野々村三十郎が村の警固に当った。
この後、孫一は信張と連携しながら勢力を拡大して行ったが、本能寺の変の勃発により、運命が180度転換する。変は翌3日午前8時ごろ、雑賀へ知らされた。すると4日には、反信長・反孫一の勢力が蜂起して、孫一・平大夫・小左衛門・幸物の拠点を襲撃した。3日夜に孫一は岸和田城へ逃げていたが、平大夫は攻め滅ぼされた。小左衛門と幸物は、仲介者により助命された。熊野へ逃げていた平之丞も戻って来た。
【探索のヒント】今のところ土橋城の正確な場所は分かっていませんが、和歌山市立博物館で訊くと、城の坪という字名から極楽寺Aの東隣が考えられるとのことです。土橋氏は浄土宗徒と考えられているので、極楽寺が菩提寺である可能もあるのですが、墓地の古い墓でも天保期のものだし、若大夫の子孫もこの地にはいないので、若大夫との関係は全くの不明です。なお2017年9月12日に三重大学の藤田達生教授が、本能寺の変の10日後に、明智光秀が土橋重治(平之丞)に宛てた手紙の原本を発見(写しは存在)と発表しました。この時、重治は長宗我部元親のもとにいたと言われています。
【駐車場紀の川第8緑地駐車場
【鉄道】JR紀勢本線「紀和駅」南海本線「紀の川駅」
【バス】和歌山バス楠見線88「土橋」
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