@A
@木曽福島城
【探索のヒント】
 
A上原城
【探索のヒント】
 
@A
BC
B滝之澤城―下伊那郡平谷村靱【MAP】
岩村城から平谷経由で下伊那に侵入する織田軍に備えて滝之澤城には信玄の妹婿の下條信氏が入った。滝之澤城は三州街道を見下ろす台地に馬蹄形に砦を配した構造をしていて街道にはとつばせ関所を設けた南伊那の要衝であった。長篠の戦で大敗北した勝頼が近習4騎と共に熊谷直定の案内で逃げ込んだのが滝之澤城である。留守居役の高坂弾正が勝頼敗走を知ると勝頼の旌旗・幟・武具をそろえ、3百騎を引き連れ迎えに行った。ここで陣容を整えた勝頼は惨敗したにも関わらず凱旋する事ができた。
下條氏長の裏切りによって腹背を敵に受ける形なった信氏は城を捨てて三河黒瀬へ逃げた。この時一緒に逃げた嫡男信正はその後病死、信氏もまた急死してしまった。
本能寺の変で信長が死ぬと氏長に反感を抱く信氏の旧臣達は信氏の次男頼安を擁立、これに家康が荷担して下伊那は再び下條氏嫡流の手に戻った。頼安は家康のもとで信濃の反家康勢力の南下を防ぐ働きをした。これに感謝した家康は松尾の小笠原信嶺・知久の知久頼久の領土以外を頼安に与え、下條氏は南伊那最大の国人となった。
織田に寝返った氏長は旧領を安堵されたが本能寺の変後、その運命の歯車が狂いだした。氏長に反感を抱く下條家旧臣達は、三河に逃げた後、相次いで死亡した信氏と嫡男正信の代わりに正信の弟頼安を擁立しようとした。これを家康が支援して氏長は殺害され、頼安が下條家を継ぐ事になった。
【探索のヒント】国道153号線「道の駅信州平谷」の少し北、「柳川橋」との間にでっかい@滝之澤城の看板があります。駐車場はないので路肩に駐車しました。バス停の横からロッジが点在する小道を下ると旧国道153号線へ出ます。これが三州街道です。道へ出たら右へ行くとAとつばせ関所跡があります。ここにもさっきと同様の看板があり、それに従って周りを見るとB赤子石の祠のある辺りが本陣です。さらにみるとC石垣が確認できました。陣地を築いた場所には土塁や堀切が今でも確認できるそうです。
【駐車場】なし 【バス】西部コミュニティバス「うつぼ」 
 
C吉岡城―下伊那郡下條村陽皐
織田軍の侵攻の最前線滝之澤城には当主下條信氏が入り、本城の吉岡城は家老の九兵衛氏長に任せた。しかし、河尻隊が伊那に侵攻してくると氏長の妻がそれに内通して河尻隊の兵を城内に引き入れてしまった。これにより滝之澤城の信氏は戦う事ができなくなり三河に逃亡する羽目になった。氏長は信長により旧領を安堵されたが本能寺の変が起きると家中で孤立してしまった。信氏の旧臣達は三河から頼安を戻し、それに家康の協力も得て氏長の殺害に成功した。
下條氏はもとは甲斐武田家と同系で武田武春(一説に信継)のときに下條頼氏と名を変え、伊賀良荘に移り住んだ時からその歴史が始まる。小笠原長秀が1399年に信濃守護となったが北信濃の国人はこれを拒み戦いとなった(大塔合戦)。この時下條氏をはじめとする伊那衆は長秀を支援したが敗退、長秀は失脚した。その弟政康はまだ信濃にあって、上杉禅秀の乱で信濃の国人たちをまとめる事に成功、着実に力をつけ信濃守護に任じられた。この正康の孫、康氏が同じ清和源氏を祖とする後継者の絶えた下條家を継いだ。そして吉岡城を拠点に小笠原家の威勢もあり周囲の地侍を従え、下伊那に大きな勢力を持つに至った。
天文23(1554)年信玄が下伊那を手中に収めるとその配下に入った下條信氏は伊那先鋒衆となり、2年後には奥三河の武節城、白鳥城、名倉城を一日で落とす活躍を見せ信玄に下條氏の重要性を認識させた。それにより信氏は信玄の妹を娶る事になる。さらに信氏は家康の重臣石川数正や酒井忠次とも姻戚関係があった事から今川義元亡き後の駿河を武田家と徳川家で分割する密約の使者として働いている。
【探索のヒント】
 
D土田
【探索のヒント】
 
@A
BC
D
E松尾城―飯田市毛賀【MAP】
信濃守護小笠原政康が死ぬと嫡男宗康が小笠原家総領と守護職を引き継いだ。これに反発したのが政康の兄長将の嫡男で深志にいた持長だった。1446年宗康と持長が戦い、宗康は討死した。しかし幕府は持長の小笠原家総領を認めず、宗康の子政秀が元服するまで宗康の弟光康が総領と守護職を引き継ぐ事になった。光康は松尾城、政秀は気賀沢川を挟んで南の鈴岡城を本拠とした。こうして小笠原家は深志系・松尾系・鈴岡系の三家に分かれた。1493年成長して総領と守護職を継承した鈴岡系・政秀とそれに不満な松尾系・定基が戦い、政秀とその子長貞が戦死、鈴岡城も落城した。鈴岡系の遺臣は深志系に救援を求めた。深志系は下條氏の協力も得て松尾系定基を甲斐へ追い落としたが、甲斐武田氏の援助を得た松尾系は松尾城に復帰、武田氏の後盾もあり下伊那で勢力を拡大した。1543年頃深志系長棟は松尾城を攻めて鈴岡城に次男信定を入れることに成功した。1554年信濃併合を目論む武田晴信は長棟の嫡男長時を攻めた。長時は弟信定の守る鈴岡城へ逃げ込むが、松尾系信貴を先鋒にした武田軍に敗れ鈴岡城は落城、深志小笠原家は信濃から放逐された。この信貴のこが信嶺である。信嶺が信長の旗下に入った直後本能寺の変が起こり、今度は下伊那を支配した家康に属した。そして家康が関東へ移されると信嶺をそれに従って武蔵本庄へ移り、松尾城は廃城となった。
松尾城は天竜川西岸の段丘の地形を巧みに利用して南北350メートル、東西6百メートルの城域を持つ。北はツヅラ沢という急崖、南は標高差50メートルの気賀沢川谷、東は岬状の段丘という天然の要害に守られていた。城へは北西の「片羽」と呼ばれる一帯から三、二の曲輪の真中をクランク状に通って来なければならない。本曲輪は南北45メートル東西60メートルのこの丘陵最高所に設けられ、南東部には「サカヤシキ」という広い出曲輪で守られている。
【探索のヒント】コピーした「伊那谷の城」を頼りに行ったのですが私の持っている地図には松尾城跡である「松尾公園」が載っておらず「鈴岡公園」から行きました。歩いて十数分で到着します。鈴岡城には遺構の表示がちゃんとあるのに松尾城は@本曲輪跡A碑D松尾城の概略があるだけです。しかしB空堀や土塁、追手道などはそのまま残っており、見ごたえ十分です。
公園という事で駐車場完備です。中央道「飯田インター」から国道153号線を東へ向かいます。「名古熊東交差点」で南へ向かい突き当りの道を左へ曲がりすぐ右折。「三菱電機の工場」の横を進むと公園へ到着です。ちなみに私が行った「鈴岡公園」は国道151号線の「駄科」交差点の西、「ローソン」のある交差点から県道444号駄科大瀬木線に入って少し行くと右手に公園の案内掲示があります。松尾公園ほどの広い駐車場ではありませんが10台ぐらいならいけそうです。公園に入ってトイレの横から降って行きます。そして
C毛賀沢川にかかる橋を渡ると松尾城です。そこから右へ行くと「サカヤシキ」へ向かい、それ以外は本曲輪へ向かいます。
【駐車場】公園駐車場 【電車】JR飯田線「毛賀駅」
【バス】南信交通乗合バス市内循環線「名古熊東」
 
F木曽峠―木曽郡南木曽町吾妻・下伊那郡阿智村清内路【MAP】
『信長公記』からは妻籠から清内路へ向かう途中に木曽峠があったと読める。従って現在ある木曽峠(大平峠)は該当しないし、現木曽峠のある大平街道は信長時代にはなかった道である。この記述に該当するのは清内路峠だけである。別名「古木曽峠」というのもそれを裏付けている。下伊那に進出した信玄はここに蘭ノ関と言う関所を置いた。
【探索のヒント】
 



G梨子野峠―下伊那郡阿智村清内路・駒場【MAP】
清内路の地主原氏は永正年中(1504〜20)に伊那谷の下条氏に属した。その下条氏の当主が信氏だった1554年頃武田家の配下となった。武田晴信は南木曽と清内路を結ぶ清内路街道に関所(蘭ノ関)を設けるとともに、弘治2年清内路と伊那谷の間に峠道を作らせた。この峠が梨子野峠である。
【探索のヒント】
 
 
@A
BC
G飯田城―飯田市追手町【MAP】
保科正直と坂西織部経定が守っていたが松尾城の小笠原信嶺が下伊那から進軍する織田軍に合わせて飯田城に迫り各所に火を放ち、木曾方面から森長可・団平八隊も飯田城に迫ると飯田城だけでは支えきれないと判断、退去した。これを追った森長可は市田で十騎余を討取っている。
この後保科正直は高遠城へ入り織田軍と戦うが落城後、行方不明になる。しかし北条氏直の援助で高遠城主へ復帰するが徳川と北条が争うと家康に味方し、伊那郡半分を安堵された。その後の活躍により松平性を与えられ「徳川家御家門」となり発展、その子孫が会津藩主松平容保である。
小笠原氏を祖とする坂西氏は鎌倉幕府滅亡後飯田郷の地頭になった。信玄の信濃進出後、信玄に従うが松尾小笠原氏と争い、坂西氏は滅んでしまった。北条氏から武田氏に斡旋を受けて天正元年飯田城主になった坂西織部はこの流れを汲むのではない。
飯田城は天竜川西の岬状になった段丘上ありその険しさから山伏の修行所であった。坂西氏がこの地を治めるのにあたり上飯田から飯坂城へ移り、さらに展望の利くこの台地に目をつけ、飯坂城の土地と交換してもらったといわれている。信玄の下伊那侵攻の前にこの付近の地侍のほとんどが武田家の傘下に入った。そのなかで大島城と並んで飯田城が下伊那の要所と位置付けられ城主として跡部忠勝、秋山信友、保科正直が派遣されてきた。信長が武田氏を滅ぼすと毛利秀頼が伊那を与えられ、飯田城には下條氏長が城代として入った。間もなく本能寺の変が起こり今度は徳川家康の領国となり菅沼定利が城主となる。しかし秀吉による家康関東移封により再び毛利秀頼が城主となる。朝鮮出兵中秀頼が死亡、娘婿だった京極高知が代わって城主となる。その後小笠原氏・幕府・脇坂氏・堀氏と城主を代え明治維新を迎えた。堀氏は藩知事となるが東京へ移動を命じられ、飯田城は政府によって完全に破壊されてしまった。それは飯田藩が幕末、新撰組とともに薩長の弾圧をしたからといわれている。
【探索のヒント】「飯田城ガイドブック」(飯田市美術博物館発行)に詳しく分かりやすく飯田城と城下町について解説しています。飯田の町をゆっくり観光される方にお勧めです。飯田城本丸跡には@長姫神社が建っています。本殿裏にA土塁がある以外城を連想させる物はありません。神社の東、三宜亭本館のある場所が山伏丸で最初ここが本丸だったという説もあります。ここから西へ向かって二の丸・三の丸と続く連郭式の城でした。初代城主坂西氏から最後の堀氏まで城は改修が繰り返され、現在確認できる遺構は江戸時代のものがほとんどですが博物館のある二の丸と本丸の間のB空堀は発掘の結果、江戸時代以前のものと確認されています。追手門小学校横の急な坂の下のC野面積みの石垣のある水の手御門跡は昔は追手門で城下町はこちらにあったといわれてその後城下が西の方へ形成され三の丸ができるとここが搦め手となりました。
国道151号線または国道256号線を利用して長姫神社へ向かいます。絶壁の上の城という事で新府城を思い出しました。観光地なので駐車場はいたるところにあります。先に紹介したガイドブックだと博物館に車を停めて徒歩で城跡完全めぐりが約2時間、城下町完全めぐり約3時間です。城下町は車で巡回して1時間半です。
【駐車場】飯田市実術博物館駐車場
【電車】JR飯田線「飯田駅」
 
@A
BC
【寄り道】赤子ヶ淵―下伊那郡阿智村清内路【MAP】
坂西織部は飯田城の北鳩打峠から黒川に沿って大平へ逃げようと嫡男信千代、妻とわずかな手勢で城を脱出、山中に逃げ込んだ。だが一行は探索中の織田軍と遭遇。織部は家臣の久保田と竹村に信千代を託して、敵を足止めするために戦い討死した。その場から逃れた信千代達だったが山中道に迷ってしまう。幼い信千代は空腹と疲労から追手から身を隠せる岩陰にたどり着いた時には虫の息だった。そして久保田と竹村の介抱も空しく信千代は息絶えた。この後、この場所では赤子の泣く声がするという事でこの名がついた。
【探索のヒント】
【駐車場】路駐
 
 
H平谷
【探索のヒント】
 
@
AB
CD
I大島城―下伊那郡松川町元大島【MAP】
日向玄徳齋が守将で武田信廉・小原丹後守広勝(忠継
、上野の安中氏が援軍として来ていた。もともと武人肌でなかった信廉は味方の相次ぐ寝返りと快進撃を続ける織田軍に恐れをなして甲斐へ引き上げた。武田二十四将に数えられた小原丹後守も同じく甲斐へ引き上げ、嫡男忠五郎、弟下総守忠国、その子惣六らと共に天目山で勝頼に殉じた。
大島城には二つの伝説がある。ひとつは大蛇伝説。大島城の崖下の天竜川に大蛇が住んでいて霧を吐いて城全体を包んでしまうため、城の実態が分からず難攻不落の城―別名大蛇ヶ城と呼ばれた。信忠がこの城を囲んだ時も同じく霧に包まれ攻めあぐんでいたが、この大蛇の事を知り川にめがけて無数の矢を放った。やがて射殺された大蛇が浮かび上がり、ようやく霧が晴れたというものである。
もうひとつが金鶏伝説。落城間際、城主の娘が黄金の鶏を抱いて城内の井戸に身を投げた。その後元日の朝、井戸の底から鶏の鳴き声が聞こえるようになったという話しである。
平安末期、南信濃源氏片桐兵庫助為行の八男八郎宗綱が大島郷を領有して大島氏を名乗り鎌倉幕府に仕え、大島城・北の城・沼の城を築いた。時代が下り武田信玄が信濃を支配すると、飯田城主秋山信友に南信濃の拠点とするため大島城を大改修するように命じた。元亀2年のことである。このとき近隣の村々から人足が強制徴用されている記録が残っている。この大改修により大島氏は北の城・沼の城へ移った。この時から台城と呼ばれるようになった。
大島城は天竜川に突き出した崖の上に本丸を置く平城で川が天然の堀の役割をしているので防御施設は西側に配置された。武田流築城術とも言うべき三日月堀や馬出しが今も確認できる。現在は確認できないが城の西の平地に大島氏の館や集落が広がっていたと推定される。
【探索のヒント】国道153号線の「山吹交差点」から東へ向かう県道226号に入ります。しばらく行くと左側にガードレールがあり、県道と分かれ左へ向かう細い道があります。この道をずっと進んで行くと丁字路に出ます。右へ行くと台城橋があり、@天竜川越しに大島城を見ることができます。左へ行くと「台城公園」の看板があります。駐車場へ向かうまでに右側に見事なA三日月堀があります。グラウンドゴルフの三の丸には土塁やB空堀、土橋などが残り見ごたえ十分です。C本丸手前の巨大な堀切を左へ降りて行くと金鶏伝説を伝える慰霊碑があり、その右側の下った所にD井戸があります。周囲を土塁で囲み外部から井戸の存在を隠しているという事です。ここから急な階段を上ると本丸へでます。
【駐車場】台城公園駐車場 【電車】JR飯田線「山吹駅」
 

 

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