武田領侵攻<天目山の戦い>
経過
天正10年(1582)2月3日から始まった織田信長・徳川家康・北条氏政による武田攻めは敵を防ぐべき城主の寝返りや降服、逃亡によって着々と進んでいった。特に伊那方面を攻める織田信忠軍は大軍とあって武田勢は戦うことなく城を明渡す有様だった。木曽義昌の謀反を知って上原城へ出陣した武田勝頼の身を案じながら勝頼の正室北条夫人19日武田八幡宮@へ戦勝祈願に訪れた。しかし夫人の祈りは通じず駿河で守る一族の穴山信君家康に寝返って徳川軍を先導、甲斐に向かっていた。
28日勝頼高遠城の救援を諦め新府城Aへ戻って来た。その2日後高遠城は落城、もはや甲斐信長の手に落ちたのも同然だった。勝頼は再起を計るため新府城を捨て小山田信茂岩殿山城Bへ逃げる事にした。新府城にいた従兄弟の武田信豊小諸城で敵を迎え撃つといって先に城を出て行った。
3月3日
新府城に火が放たれ、勝頼一行約2百余人は城を後にしたC。一族・家老衆の中には避難する婦女子に紛れて逃走を図る者もいた。その日の夜大善寺Dに到着した一行はそこで一夜を過ごし翌4日岩殿山城へ向かうため甲州街道笹子峠の麓の駒飼Eに移って先に城へ戻った信茂の迎えを待った。しかし9日になって信茂勝頼を裏切ったことがわかり10日やむなく勝頼一行は天目山栖雲寺Fを目指すことになった。
7日諏訪から一条信竜屋敷Gに本陣を移した信忠は武田の残党狩りHをはじめたがその中に勝頼の姿は無かった。11日滝川一益のもとに勝頼一行が田野Iに潜んでいるとの情報がもたらされた。栖雲寺を目指していた勝頼一行だが敵が先回りしていたJため田野へ引き返していたのだ。探索の結果一行は田野に簡単な陣を張っているがわかった。織田軍徳川軍謀反兵に包囲された勝頼一行は最期の戦いKに臨んだ。勝頼嫡男信勝土屋惣蔵昌恒は獅子奮迅の働きをし果てた。これを受け勝頼北条夫人、最後まで付き従った子女・側近たちは自決して果てたL。ここに名門甲斐武田氏400年の歴史を閉じた。
武田家滅亡を受け戦勝祝いや本領安堵の礼に多くの人々が訪れる中、
信忠信長を迎えるため躑躅ヶ崎館の改修に取り掛かった。甲府での用事が一段落した28日信忠諏訪信長を訪問している。
武田領侵攻編 下伊那の戦い―高遠城の戦い―鳥居峠の戦い
信長東国視察編 
長野県山梨県―静岡県