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@武田八幡神社―山梨県韮崎市神山町北宮地【MAP】
北条夫人は1577年14歳の時に武田家と北条家の同盟強化のために嫁いで来た。このとき勝頼は32歳だった。年の差があった二人だったが仲睦まじく暮していた。「お館の乱」で夫人の兄北条氏政と勝頼が対立して、先のことを考え相模へ戻るよう勝頼から言われた時もそれを拒んだほどである。木曽義昌の謀反とそれ以後続く味方の裏切りに夫人は悩み、勝頼がその逆境を乗り越えられるよう武田の郷の氏神武田八幡神社に願文を奉納した。しかしこの時すでに武田に残された防御拠点は高遠城だけになっていた。
武田王を祭る宮社がここにあり勅命で822年八幡宮の総本社宇佐八幡宮から分霊を迎え合祀して武田八幡宮となった。その後京都岩清水八幡宮も勧請した。武田信義が韮崎に館を構えここを氏神として以来、武田家はここを崇敬した。その後武田信虎・信玄によって二の鳥居、本殿が再建されている
【探索のヒント】韮崎市役所から釜無川にかかる武田橋を渡りすぐに右折して川沿いの道を進みます。すぐに左側に「韮崎西中学校」が見えますのでそこを左折してひたすら直進します。二の鳥居@の横に広い駐車場がありこの先の武田八幡神社Aにも駐車場はあります。北条夫人が奉納した願文を移した石版は拝殿の横Bにあります。更に奥へ進んでいくと猿が居ました。
神社から二の鳥居に戻る途中、左前方に見える丘陵Cが新府城のある七里岩です。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「韮崎駅」
【バス】韮崎市民バス穴山橋線「武田八幡入口」
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A新府城―韮崎市中田町中條【MAP】
長篠で大敗北を被った勝頼だったが、家康の武田領への軍事行動には、積極的に対処していた。しかし、一つの判断ミスが、取り返しのつかない事態へ勝頼を追いやった。
それは天正7年3月、上杉家で起こった家督争い「御館の乱」での勝頼の行動である。謙信の死後、その養子だった景勝が家督相続を宣言、北条氏からきて養子になっていた景虎と対立した。勝頼は、正室の兄北条氏政の要請で、景虎に援軍を出した。しかし景勝の巧妙な和睦策に乗って、その援軍を引き上げさせたため、景虎は死ぬことになった。これに激怒した氏政は、家康と同盟して武田領を脅かすことになる。勝頼は、躑躅ヶ崎館では敵を防ぎきれない、と助言した穴山信君に従って真田真幸に防衛機能の高い城の築城を命じた。天正9年2月甲斐武田の発祥の地韮崎に新府城の建設がはじまった。昼夜兼行の突貫工事で9月にはほぼ完成し、12月24日躑躅ヶ崎館から勝頼一族・家臣団が移ってきた。
勝頼退去で一旦灰燼に帰した新府城だったが、家康が北条氏政と争った時、改修して陣を張っている。
【探索のヒント】本当はゆっくりと見学したかったのですが、かなり端折って回りました。県道17号茅野小淵沢韮崎線(七里岩ライン)を挟んで西が新府城跡@で、笛吹川と標高差130mの侵食台地七里ヶ岩Aに築かれました。専用駐車場は、100m離れたところにあります。そこからはじめに見るのが、東出構Bです。どなたかがHP上で真田丸のようだと、書いておられました。やはり信繁(幸村)は真幸の薫陶を受けていたのでしょう。ここから本丸Cへ向かうことが出来ます。明治時代はここから昇っていたそうです。草木が鬱蒼と茂る小道は二の丸Eへ続きます。本丸は、南北120m東西90mという広島市民球場に匹敵する広さです。なお、城域は南北600m東西550mです。また一角には、長篠の戦いの戦死者の慰霊碑(長篠の戦いを参照)があります。本丸西側には、蔀の構えDなるものがあります。これは、本丸の周囲に植え込みや土塁を構えて、本丸内部を見なくするものです。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「新府駅」
【バス】山梨交通「祖母石中」
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B岩殿山城―大月市賑岡町岩殿【MAP】
小山田氏は、都留郡南部に勢力を持った国人である。1416年の「上杉禅秀の乱」では、小山田弥次郎が義父武田信満と禅秀方について鎌倉軍と戦った。信玄の父信虎が、叔父の油川信恵や武田一族の大井信達と争ったときにも、小山田氏は参戦している。それでは、小山田氏は武田氏と一身同体だったのかというと、駿河・相模の勢力とも姻戚関係があり、あくまでも武田氏からは独立した勢力だった。しかし、小山田出羽守信有が、戦国大名として力をつけてきた信虎の娘を娶った頃から、従属的な立場に変化した。1549年信有が、財源不足のため自領内に課税しようとしたとき、信玄と相談、その承認を得ている。それでも、小山田氏独自の富士浅間神社の神職の保護・統制による両国経営は、そのまま任されている。軍事面では、信玄が諏訪・信濃へ勢力拡大を図ると、信有は目覚しい働きを見せ、武田家家中でも重きをなした。跡を継いだ弥三郎信有は病弱だった上統率力にも欠けていたため、領国内が混乱した。弥三郎が死に、弟の信茂が当主に就くと、その政治手腕で領国内の統制に成功した。さらに信玄のほとんどの戦いで手柄を挙げ、文武両道に長けた武将として勇名を馳せた。勝頼が、新府城退去にあたり信茂と真田真幸から誘われて信茂に頼ったのは、こうした武田家との長い関わりを重視したこともあるだろうが、甲斐から離れることにも抵抗があったのかもしれない。
岩殿山の歴史は、9世紀末天台宗円通寺が開創されてから始まったといわれる。10世紀には門前町も発展、13世紀になると天台系聖護院末の一大修験道拠点として、山梨・富士付近まで支配することになった。戦国大名が台頭しはじめた16世紀、甲州街道を眼下に見るこの地は、小山田氏・武田氏の関東に対する戦略拠点として岩殿山城が築かれた。武田氏、小山田氏が滅んだあと、家康によって利用されたが、江戸幕府が確立された17世紀初め、関東三名城の一つに数えられた岩殿山城はその役目を終え、廃城になった。
【探索のヒント】国道20号線「高月橋入口交差点」に、「岩殿山城」の案内板があるので、それに従って北へ向かいます。真正面の大きな岩山@が岩殿山です。高月橋を渡ってすぐ左に、岩殿山公園駐車場があります。ここから国道139号線をしばらく歩いて、左手にある「ふれあい館」を経て、山へ登っていきます。駐車場から約30分で、揚城戸跡Bへ到着します。ここから次々と見所に出くわします。岩山の上の城だけに、平城のようにあちらこちら歩かなくて済みます。この城跡で一番広い場所が、兵の鍛錬や乗馬の練習をした馬場Cです。その先に烽火台を備えた本丸Dがあります。馬場の南側を下ると、水が湧き出していて「亀ヶ池」(右)と「馬洗池」(左)Eと呼ばれる水浴び場になっていました。これ以外に、本丸の先には空堀や物見台があります。大阪在住の私としては、めったに見れない富士山Aを山へ登りながら、何度もカメラに収めました。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「大月駅」
【バス】富士急都留中央バス「高月橋」
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C新府城から退去
高遠城の落城、武田一族の穴山信君が徳川軍に降って甲府へ向かっている、という情報に新府城内は、大騒ぎになっていた。木曽福島城へ派兵したとき、1万5千いた兵士は大半が逃亡して、一千人ほどになっていた。この絶望的な状況では、逃げるしか生き延びる手段はなかった。小山田信茂と真田真幸の退去先の申し出があり、譜代の家臣信茂のもとへ行くことになった。結局、この選択が誤っていたといわれるが、果たしてそうなのだろうか。この時点で、真幸も武田の将来に見切りをつけて、北条氏や織田氏に誼を通じている。結局どちらを選んでも、武田家が再起できることはなかったのではないだろうか。新府城に火をかけた勝頼一行5百人は、東へ向かった。この5百人も半数以上が、女子供の非戦闘員で、「信長公記」「甲乱記」は、昨日まで華やかな衣装に身を包んでいた人たちが、取るものも取りあえず身一つで落ちてゆく惨めな有様を描いている。一行は、織田軍がすぐそこまで接近しているという不安から、宇津谷を通り竜地までの9キロを休まず歩いた。竜地で、新府城のほうを振り返ると、城はすっかり炎に包まれていた。しかし彼らはここでは休んでいられなかった。千塚・湯村・塩部を通り、府中に到着。さらに東へ向い、善光寺、正宗寺を経て、柏尾の大善寺でこの夜を明かすことにした。
善光寺といえば、信濃善光寺が有名。こちら甲斐善光寺は、第2回目の川中島の戦いのあと、戦火が寺に及ぶのを恐れた信玄が、自国に本尊を移したのが始まりとされる。善光寺の名前のもとになった長野県飯田市に在住した本田善光の葬儀が、この付近で執り行われたことが縁でここへ移されたという。甲府に入った織田軍は、ここに陣を張った。勝頼を裏切った小山田信茂一族の処刑もここで行われた。
甲斐武田の祖武田信義の孫信隆が名乗った岩崎氏の祈願所であった正宗寺は、鎌倉末期真言宗の寺として創建された。岩崎氏の没落にあわせて寺は、廃されたが武田信春の子信継によって、真宗の寺として再興された。勝頼一行が、ここに立ち寄ったことで、織田軍はここに火をかけ全焼させた。天正13年駒飼の渡辺肥後尉により再建。江戸時代には、本堂が再建されたが、柱の一部には天正期の再建されたものが使われた。
【探索のヒント】韮崎市から甲斐市にかけて、この逃避行に関する碑があります。中央道「韮崎IC」の西、中央道にかかる架橋の手前に高速に沿って走る細い道があります。道なりにひたすら進んでいくと、「デイリーヤマザキ」のあるT字路に出ます。そこを右に曲がって、すぐ右手に涙の森@(韮崎市上ノ山【MAP】)があります。車は少し先に停めました。ここで炎上する新府城を見て、「うつつには おもほえがたきこのところ あだにさめぬる 春の夜の夢」と勝頼(北条)夫人が一首詠んだそうです。
次の回看塚A(甲斐市宇津谷【MAP】)は、この道を戻ります。道なりに進むと両側に葡萄畑が広がる一角に、碑があります。「春がすみ たちいづれども いくたびか あとをかえして 三日月の空」と北条夫人が詠みました。道が狭く車を停めると邪魔になるので葡萄畑用の小道に停めました。
泣石B(甲斐市下今井【MAP】)は、JR中央線「塩崎」駅南東の県道6号甲府韮崎線と国道20号線が交差する「下今井」にすぐそばにあります。もとは100m南東にありました。ここでは新府城を振り返って涙を流しただけで歌は詠んでいません。
甲斐善光寺C(甲府市善光寺3-36-1【MAP】)本殿裏には信玄公石像Dがあります。善光寺駅から徒歩7分。酒折駅からは徒歩15分です。
正宗寺E(甲斐市勝沼町下岩崎1788【MAP】は,
国道20号線「藤井交差点」を曲がった道なりに北上します。県道306号田中勝沼線を越えると左へ向かう本線と右へ入る車一台がやっとの細い道があります。この細い道沿いにお寺があります。
●涙の森:路駐
●回看塚:路駐
●泣き石:路駐
【電車】JR中央本線「塩崎駅」 【バス】山梨交通「下今井」
●善光寺:【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「酒折駅」身延線「善光寺駅」
【バス】山梨交通バス「善光寺入口」
●正宗寺:【駐車場】専用駐車場
【バス】勝沼町民バス「祝3区制御室前」
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D大善寺―甲州市勝沼町勝沼3559【MAP】
大善寺には、理慶尼という尼僧がいた。武田信虎の異母弟勝沼信友の娘で、松葉が出家前の名前である。松葉は、雨宮織部正(信濃村上が祖)に嫁いだが、松葉の兄勝沼信元が武蔵国藤田右衛門と通じたことで、信玄に誅殺され勝沼家は断絶した。松葉は、雨宮家に累が及ぶのを恐れた織部正に離縁されたが、帰るべき家が無く大禅寺護摩堂の阿閣梨慶弥に学んで尼となった。理慶尼は、勝頼の乳母であった。そうした縁からか勝頼は、一夜の宿所に大善寺を選んだ。その一行の中には、かつての夫雨宮織部正も含まれていた。その後織部正は、田野で勝頼に殉じ、その墓は景徳院と恵林寺にある。理慶尼が、勝頼滅亡までを記した「理慶尼記」は真偽の問題はあるが、非常に参考になる。
大善寺は、718年行基が夢で見た薬師三尊像―右手に葡萄を持ち左手は結印した薬師如来像と日光・月光菩薩像を作り、安置したのが始まりという。このためぶどう寺とも呼ばれる。また行基が法薬としてぶどうの栽培を村人に教えて以来、勝沼は葡萄の栽培が盛んになった。971年甲斐にきた三枝守国は、平安初期に焼失していた大善寺を再興し、平清盛や源頼朝ら時の権力者の庇護をうけ、関東屈指の古刹になった。以降、甲斐で力をもった三枝氏だったが、1163年全国的な広まりを見せていた熊野信仰と藤原氏との争いに巻き込まれ没落してしまい、代わりに甲斐源氏が台頭した。その属将となった三枝氏だったが、武田信虎時代に断絶した。それを惜しんだ信虎は一族の石原守綱に三枝家を継がせた。その孫が武田二十四将の一人で、信玄に我が両眼と言わしめた三枝勘解由左衛門守友である。
【探索のヒント】中央自動車道「勝沼インター・チェンジ」から国道20号線を大月方面へ向かってすぐに左側にあります。駐車場利用の場合は受付で拝観料を払うと駐車券がもらえます。ゲートを潜って駐車場へ向かう途中に三枝守国・武田勝頼の腰掛石Cがあります。でも見忘れました。県指定重文の山門@から石段を登ると正面に国宝の薬師堂Aがあります。そこまで行かずに石段を登りきってすぐ右に向かうとトイレを過ぎたあたりに理慶尼の墓Bがあります。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「勝沼ぶどう郷駅」
【バス】勝沼町民バス「大善寺」
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E駒飼―甲州市大和町日影【MAP】
勝頼らが大禅寺を出発する前、小山田信茂が一緒に逃げてきた母親を勝頼に預けて、先に岩殿山城へ戻った。大禅寺を出発した一行は、横吹で休息後、笹子峠の麓の駒飼と鶴瀬に陣を張って、信茂の迎えを待った。五日目の3月9日になって、ようやく従兄弟の小山田行村がやってきて、明日の朝信茂が迎えに来ると伝えた。しかしこれは嘘で、行村はその夜、信茂の母親を密かに連れ出して行った。ここに最後の頼みであった信茂にまで裏切られてしまったことが判明し、これに動揺した者はこの場から逃げ去り、一行の人数はさらに減った。一説によると笹子峠まで物見に行ったところ、小山田隊が銃撃してきたので裏切りに気づいたともいわれる。いずれにしても、進めるのは大菩薩峠方面しかなくなった。これからの逃避行は、助かる可能性の無い絶望的なものだった。土屋昌恒の提案に従って天目山に向かうことになった一行だったが、やはり逃亡者は絶えなかった。その中に勝頼の側近中の側近の跡部大炊助勝資と長坂長閑斎光堅もいた。これを見つけた昌恒は、2人を成敗した。この2人は長篠合戦の主戦論者(今では長坂は留守居役だったとするのが一般的)、御館の乱のとき景勝から賄賂をもらい、勝頼の判断を誤らせたなど評判が良くない。しかしその死には諸説あり、跡部は諏訪で殺害されたとか、長坂は脱走して、甲府の屋敷に隠れているところを見つかり、殺されたというのものである。
【探索のヒント】大善寺を出て、景徳院へたどり着くまでの勝頼一行のルート上に、史跡を見つけることが出来ます。
大善寺を出て最初にあるのが、武田不動尊@A【MAP】です。大善寺から国道20号線を大月方面へ行くと2006年11月現在工事中の「観音隧道」の手前に「観音隧道西交差点」があります。その信号を左折、この道は20号線の下をくぐっていますが、くぐり終わってすぐ左に@があります。道幅が狭いのでここでは路駐できません。その先の「共和バス停」は、バスが方向転換するために広くなっていますが、バスが来たらまずいので橋を渡った先にある待避所に車を停めました。@の下にAの祠があります。駒飼へ行く途中休息した勝頼が、村人に託した武田の守り本尊である不動尊を祀っています。
20号線に戻って、大月方面へ向い、次にあるのが鞍懸B【MAP】で、土屋惣蔵に追われた長坂長閑斎の落した鞍が、桜の木に引っ掛かったという所です。そこからもう少し行くと血洗沢C【MAP】です。跡部大炊介を斬った土屋惣蔵が、刀の血を洗った沢といわれています。このあたりには駐車は出来ませんが、この先の右手に停車禁止地帯ですが車を停められるスペースがあります。私が行った時も何台か停まっていました。
ここからまた大月方面に行くと左側に「塩野庭石店」が見えます。国道を挟んでその反対側に細い上り坂があります。そこを入って右の道を進んだ突き当たりのお宅の庭に勝頼公腰掛石D【MAP】があります。見晴らしのいいところで、勝頼はここに腰掛け、あれこれ考えたのでしょう。
再び国道20号線に戻り大月方面へ行くと、「大和橋西詰交差点」と「笹子峠」の標識があるので、右折します。ここが旧甲州街道Dです。ここを道なりに坂を登って行くと、左手に運動公園があります。この先が駒飼宿E【MAP】です。私は運動公園の駐車場に車を停めて、自転車で周辺を回りましたが坂道ばかりで後悔しました。
最後は「甲斐大和駅」北側にある勝頼像F【MAP】です。
●武田不動尊:【駐車場】路駐 【バス】やまと村営バス「共和」
●鞍懸:【駐車場】路駐【バス】やまと村営バス「志々久保」
●血洗沢:【駐車場】路駐【バス】やまと村営バス「志々久保」
●勝頼公腰掛石:【駐車場】路駐【バス】やまと村営バス「鶴瀬」
●駒飼宿:【駐車場】運動公園駐車場
【最寄のバス停】やまと村営バス「日影」
●勝頼像:【駐車場】路駐【電車】JR中央本線「甲斐大和駅」
F天目山栖雲寺―甲州市大和町木賊【MAP】
天目山は、臨済宗建長寺派の栖雲寺の山号にちなんだ名前で、それ以前は木賊山といった。ただし天目山は山ではなく、峠のことを指す。
栖雲寺の前身護国禅寺の開祖業海本浄が、この地が元の修行地天目山と似ている事から、山号を天目山とした。業海本浄の死後、武田信満の開基で、栖雲寺と名を変えた。
信満は、1414年の上杉禅秀の乱後の、室町幕府による残党狩りにより、天目山で自害した。これに倣って、勝頼も最期の地に、天目山を目指したとも言われる。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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G一条蔵人私邸―甲府市北新2丁目【MAP】
信忠が甲府に入ったとき、一条蔵人私邸に本陣を置いた(『信長公記』)。武田一族の成敗を終えた信忠は、西上野国峰城の小幡信真(のち信貞)のもとへ、織田勝長(岩村城落城で武田家に人質になっていたが、前年11月織田家に帰還)、団忠直、森長可を派遣、帰属するよう求めた。『信長公記』の長篠合戦の項で、赤備えの西上野小幡一党の勇猛果敢さが取り上げられている。武田家の西上野先方衆として活躍した小幡氏は、今後の織田家の東国経営には欠かせない存在だった。信真は人質を差し出して、織田家の配下に入った。これ以降、駿河・甲斐・信濃・上野の国人たちが多数信忠のもとを訪れた。
【探索のヒント】昨年「甲斐武田を探検!」で紹介されていた家臣団の地図を片手に、一条信竜屋敷へ行きました。武田神社の南西8百メートル「ファミリーマート」の辺り@です。「山梨大学付属小学校」と「北新小学校」の間の道を北へ進むと駐車場の角に案内板Aがあります。
【駐車場】ファミマの駐車場
【電車】JR中央本線「甲府駅」
【バス】山梨交通バス「北新2丁目

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H残党狩り 武田信廉屋敷―甲府市古府中町【MAP】
信忠が甲府へ入ると武田一族は勿論、重臣家臣にいたるまで探し出して殺害していった。信玄の影武者を務めた逍遥軒信廉(出家後信綱と名乗る)は、この戦いでは大島城を守っていたが、戦わずに退甲斐へ退却していた。もともと武人より文化的な面に長けた人物であったので、折り合いが悪かった勝頼の犠牲になるくらいなら、逃げてでも武田の血筋を残そうとしたのかもしれない。しかし、織田軍に発見され相川河原の塚原で斬られた。享年51歳。
【探索のヒント】信廉屋敷は、武田神社から積翠寺へ行く県道31号線を道なりに行くと左に「古府中第一公園」があります。そこに案内板があるのですが、屋敷は道を挟んだ東側にありました。
生前(天正7年)作った位牌が安置されている逍遥院@(甲府市桜井町999【MAP】は、国道140号線「桜井交差点」を北へ入り、すぐ左にあります。もとは、屋敷近くに建てた曹洞宗のです。信廉自作の位牌は,、本堂にあり見学も出来るとのことですこちら参照)。本堂の左手にある墓地の入口に信廉を祀った祠Aがあります。
●信廉屋敷:【駐車場】武田神社駐車場
【電車】JR中央本線「甲府駅」
【バス】山梨交通バス「武田神社」
●逍遥院:【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「石和温泉駅」
【バス】山梨交通バス「桜井町」
@A
H残党狩り 小山田信茂首塚―甲府市善光寺町2846【MAP】
織田軍の甲斐侵攻に、土壇場で勝頼を裏切った小山田信茂は、本領安堵どころか一族皆殺しにあった。武田家中で同じような立場の穴山信君と対比されるが、家康に降ったおかげで信君は生き残れたのではないか。最後の最後に主君を裏切った信茂の行為を、「儒教の教えによる封建制度が確立されていない戦国時代は主従の関係が希薄なので保身のための行動は当然」としたり、「信長は保身のために主君を裏切った信茂を信用できぬ奴として処分した」と解説している。
【探索のヒント】小山田信茂の首塚@は、善光寺の北にあります。県道6号甲斐韮崎線の「善光寺北交差点」を北へ入ります。交差点から二つ目の細い道(首塚の標識がかろうじて見つける事ができます)を右に入った右手の葡萄農家にあります。この家のご主人は、とても親切に葡萄の事を教えてくれました。この付近はあまり車が通らないので、短時間なら路駐が可能です。
信茂の屋敷A【MAP】は、信廉の屋敷の斜め前です。交番の前に案内板があります。
●信茂の首塚: 【駐車場】路駐
【電車】中央線「酒折駅」身延線「善光寺駅」
【バス】山梨交通バス「善光寺入口」
●信茂の屋敷:武田神社駐車場
【電車】JR中央本線「甲府駅」
【バス】山梨交通バス「武田神社」
@A
H残党狩り 長閑屋敷―北杜市長坂町長坂上条1032【MAP】
勝頼の側近であった長坂長閑は、信玄の代から武田家に仕える老臣で、板垣信方を補佐して諏訪郡代として働いた。『甲陽軍鑑』で長篠合戦大敗の原因を作ったとか、上杉からの軍資金を着服したとか、天目山へ逃げる勝頼を見捨てたとか、イメージの悪い人物であるがこれらは全てウソらしい。最後まで勝頼と行動を共にして殉死したというのが有力な説である。享年70歳。
この付近の領主だった長坂氏の屋敷があった丘陵は昔から長閑山と呼ぶ。北側以外に2〜3メートルの空堀を持つ東西60メートル南北80メートルの方形に屋敷があった。
【探索のヒント】JR中央本線「長坂駅」から県道17号七里岩ラインを南へ向かいます。右側に「峡北自動車整備協業組合」の看板があり、ここから120m先に左へ入る道があります。この道へ入り、300mほど行くとガードレールが切れて、右へ入れます。その正面が屋敷跡です。
車で山@の中までいけると教えられたのですが、私の車では無理と判断。、途中で引き返しました。軽トラなら大丈夫だと思います。とにかく薮だらけで強引に入って行きましたが、空堀意外は分かりませんでした。歩き回っているうちに稲荷社Aに出くわしました。ここへは車で来る事ができます。駐車できるのはここぐらいです。
【駐車場】路駐
【電車】JR中央本線「長坂駅」
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H残党狩り 跡部氏墓所―甲府市千塚4丁目【MAP】
跡部勝資は、信玄の傳役跡部信秋の子。信玄の時代から行政手腕は買われていたし、動員兵力も武田家では最大といわれる。つまり文武ともに長けていた人物であり、長坂長閑と同じく『甲陽軍鑑』で描かれるような人物ではない。その最後は諏訪で迎えたという。享年36歳。
跡部氏の墓所である攀桂寺は、跡部氏の屋敷跡に建てられている。15世紀中ごろ、跡目信秋によって「穀蔵寺」という名で創建された。のち信秋の舎号攀桂斎に因んで変更された。
跡部氏は、甲斐源氏小笠原長清の孫長朝が、信濃佐久郡跡部に住んでから跡部氏を名乗る。その後、守護代として甲斐へ入国。実質甲斐を支配する。しかし、本来甲斐を治めるべき武田氏が戻り、9年間に及ぶ戦いがあり、跡部氏は滅ぶ。その後武田家に仕える跡部氏は、小笠原長清の流れを汲むものである。
【探索のヒント】県道6号甲府韮崎線の「千塚交差点」を北へ向かう県道7号甲府昇仙峡線に入るとすぐに「←攀桂寺@」の案内板があります。それに従って行くと到着。駐車場は十分にあります。本堂の横から墓地へ向かうと真正面に跡部氏の墓Aがあります。墓地を拡張する時に本堂の裏の竹薮を取り払ったところ、跡部氏に縁ある卵塔や五輪塔が見つかっという事です。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR中央本線「竜王駅」
【バス山梨交通バス「千塚西」
【寄り道】竜宝の墓―甲府市住吉4丁目13−36【MAP】
信玄の次男で僧籍に入った竜宝(信親)は、信玄が永禄4年信州海野城を落したあと城主に据えられた。幼少時病気により(大河ドラマでははしか)盲目となった竜宝は、利発で温厚だったこともあり、信玄からかわいがられた。天正10年織田軍の怒涛の進軍に、入明寺住職栄順は竜宝を寺に迎え匿った。しかし、勝頼が田野で滅んだのを知ると潔く自決した。享年42歳。その場所に現在墓が建っている。栄順は遺骸を境内に埋め、それが見つからないよう紅梅一本を植えて墓標とした。竜宝の子供信道は、紆余曲折はあったものの子孫を残し、現在15代昌信氏の代になっている。勝頼は側室の子であったが、竜宝は正室三条夫人の子なので、正当な信玄の子孫は竜宝の家系とされる。
【探索のヒント】竜宝の墓は、入明寺に入った左側にあります。県道22号青葉通の身延線「南甲府駅」北踏切を東へ渡った次の信号を右折します。右側に「山梨県民信組」のある交差点を右折、直進すると左側に入妙寺があります。
【駐車場】入明寺駐車場
【電車】身延線「南甲府駅」
【バス】山梨交通バス「住吉5」
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I敵が先回り―甲州市大和町田野【MAP】
日川沿いの木々が生い茂った小道を傷だらけになりながら、勝頼一行は、天目山目指して進んだ。そこへ大月から小金沢山を越えて来た小山田信茂の軍が、先回りして付近に陣を張ったという情報が入った。さらに勝沼深沢口から入った辻弥兵衛盛昌ら3百人が、栖雲寺をすでに通過、勝頼一行を待ち構えていた。辻盛昌は山県昌景配下で、第四次川中島合戦時は先陣、高天神城合戦では大怪我をしながら敵の首を取り、三方ヶ原合戦では二番槍を務めた猛者である。盛昌は武田氏滅亡後、家康に仕えさらに井伊直正に仕えたが、すぐ甲斐に戻った。この盛昌謀反は、『甲陽軍鑑』にあるのだが、間違いであるらしい。ただ敵が先回りしていたのは確かで、味方の逃亡が相次ぎ兵士40余人では天目山へ向かうのは不可能と判断した勝頼は、田野へ引き返すことにした。
【探索のヒント】県道218号大菩薩初鹿野線を景徳院前を通り越し、さらに北上すると「日川渓谷レジャーセンター」があります。ここの駐車場に停めて歩いてもいいのですが、少し先の「天目庵」の手前の細い橋を渡り、道なりに坂を登っていくとバンガローがあります。これを抜けると駐車場があってその先に大蔵原思案石@があります。天目山に進めなくなった勝頼が、この石に腰掛けてしばらく思案したといわれています。この石には武田菱に似た条紋が浮き上がっているそうです。ついでにあらぬ疑いをかけられた盛昌の屋敷跡というのが、延命寺Aにあります。
大蔵原思案石:
【駐車場】日川渓谷レジャーセンター駐車場
【最寄のバス停】大和地域巡回バス「景徳院入口」
@A
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J景徳院―甲州市大和町田野389【MAP】
味方の裏切りで天目山へ向かうことが出来なくなった勝頼らは田野へ一旦戻り、簡単な陣地を構えた。文字通り進退窮まった勝頼は一戦交えて果てる決意をした。ここで嫡男信勝が16歳になっていたが、元服―武田家の家宝「楯無の鎧」を身に付ける擐甲の礼―を済ませていなかったことを勝頼は哀れに思い、そばにあった松に重宝旗を立てかけその場で元服を済ませた。本能寺の変後甲斐に入った徳川家康は、勝頼一族を弔うため勝頼の忠臣小宮山内膳友晴の弟広厳院第七世拈橋を開山とし、ここへ田野寺を建てさせ天正16年3月完成、景徳院と名を改めた。
【探索のヒント】中央道勝沼インターから国道20号線を大和村・大月方面へ向かいます。「景徳院入口」交差点で左へそれ、県道218号大菩薩初鹿野線へ入ります。道なりに行くと左手に大きな駐車場があり、その前に景徳院があります。総門@をくぐり、アスファルトの道を進むと山門Aへ繋がる石段があり、山道みたいな方が勝頼家族の遺骸を葬り祀っている没頭地蔵尊Bへ向かいます。そこからさらに登ると、勝頼家族を模した人形三体と家臣団の位牌、遺品が納められた甲将殿とその裏に、勝頼家族とそれに殉じた家臣の墓Cがあります。山門をくぐって本堂へ向かうと旗竪ての松Dや歌碑があります。他に院の前に勝頼父子の首を洗ったという首洗い池Eもあります。
【駐車場】専用駐車場
【バス】大和地域巡回バス「景徳院入口」
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K最後の戦い―甲州市大和町初鹿
天目山へ向かうことを諦めた勝頼らは、滝川一益・河尻秀隆軍4千を相手に最後の戦いに臨んだ。そこに小宮山内膳友晴(友信)が駆けつけた。友晴は長篠合戦後、勝頼側近の横暴ぶりに異をとなえたため、側近達の諫言を信じた勝頼の逆鱗に触れ蟄居を命じられていた。しかし今回の武田家存亡の危機に「武田家譜代の家臣でありながら、その最後の戦いに参加しないのは武士道にも背き、小宮山家末代までの恥である。ほとんど勢力にはならないが武田家のご恩に報いたい」、と勝頼に戦へ加わることの許しを求めた。これに勝頼は友晴に蟄居を命じたことを詫び、「内膳こそ武士の鑑」と褒め称えた。友晴は真っ先に戦うため田野より下った四郎作で、わずかな手勢と共に守りに着いた。織田軍の先陣滝川儀太夫・篠岡平右衛門の兵に、内膳らは奮戦し数刻持ち堪えたが無勢に多勢、十数本の矢を受けた友晴は他の兵と共に討ち死にした。
四郎作を突破した織田軍に対し、勝頼・嫡男信勝・土屋惣蔵はその後方鳥居畑で敵を迎え撃った。惣蔵は弓で応戦、次々に敵を倒していった。しかし矢が尽きると敵の手にかかる前に割腹した。信勝は16歳の若武者にもかかわらず、縦横無尽に斬って回り、武田家嫡男にふさわしい戦いぶりだった。しかし鉄砲で撃たれ動けなくなり自刃した。これを見届けた北条夫人と勝頼も後を追って自決した。北条夫人19歳、勝頼37歳であった。『信長公記』による戦死者は、秋山紀伊守光継、安部加賀守勝宝、小原丹後守広勝・下総守兄弟、跡部尾張守勝資とその子供、長坂長閑斎光堅らである。
こうして勝頼一族は滅んだが、この直前渡辺加兵衛久郡という家臣が、2歳になる勝頼の幼児を連れて自身が住んでいる鎮目村に匿ったという。しかしその子は一年後亡くなってしまった。久郡は屋敷の一角にその子の墓を建て芍薬を植えて弔った。2百年以上経った1807年、久郡の子孫渡辺太郎兵衛保が墓の荒廃ぶりを嘆き、新しく石碑を建て株分けした芍薬をそばに植えた。それが芍薬塚である。
【探索のヒント】四郎作古戦場の碑@【MAP】は景徳院へ向かう県道218号を走っていると最初に左手に目に止まります。
鳥居畑古戦場の碑A
【MAP】は、さらに進んで景徳院直前右手にあります。両方とも車を停めるスペースはあるので短時間なら問題ないと思います。
勝頼B・北条夫人C・信勝の生害石Dは、すべて景徳院にあります。
芍薬塚(笛吹市春日居町鎮目【MAP】)Eは、国道140号線春日居中学北にある「鎮目交差点」を東へ入った正面の個人宅の庭にあります。道が狭くて路駐もしにくいですが、このお宅の前は若干道幅があったので写真を撮る間停めました。
●四郎作古戦場: 【駐車場】路駐
●鳥居畑古戦場 :【駐車場】景徳院駐車場
●芍薬塚:【駐車場】路駐【最寄の駅】JR中央本線「石和温泉駅」
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L土屋惣蔵片手斬跡―甲州市大和町木賊【MAP】
武田氏滅亡の寸前一際目立つ働きを見せたのが、土屋昌恒である。初め武田家支流の金丸惣蔵と名乗っていたが、13歳の時初陣で目覚しい活躍をしたのを岡部定綱が見て、養子に迎えたいと信玄に申し出た。信玄はこれを許し、次いで土屋姓を名乗るよう命じた。長篠合戦で兄昌次が戦死、遺領を引き継いだ。味方が逃亡する中最後まで昌恒は、勝頼を守りつづけた。天目山へ向かう道は、一人が通れる山道であった。昌恒は、片手で藤蔓をつかみ岩角に身を隠しその山道を進んでくる敵を次々に切り伏せ、崖下に突き落としていった。有名な「土屋想像片手千人斬り」である。斬り捨てられ、谷川へ落ちていった兵士の血で、川の水が三日間真っ赤に染まったことから三日血川と呼ばれた。
【探索のヒント】景徳院から県道218号大菩薩初鹿野線を、さらに登っていきます。竜門滝入口を過ぎてしばらくすると、左手に碑@があります。車で行くなら、ここでは車を停められないので、竜門峡入口手前の駐車場に停めての徒歩をお勧めします。現在の地形から片手斬りは、想像できなかったのですが説明板にある大正時代の史跡の写真Aを見るとよくわかります。川Bは10メートル下に静かに流れています。
【駐車場無料駐車場 【バス】大和地域巡回バス「竜門峡入口」
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【寄り道】土屋惣蔵の墓―南アルプス市徳永1678【MAP】
土屋惣蔵の墓は、実家である金丸氏屋敷であった長盛院のそばにある。金丸氏は、信虎・信玄の祖武田信重の子光重が、跡取がなく途絶えていたのを再興した。その3代あとの虎義には、7人の男子がいて、次男昌次と五男昌恒が土屋姓を名乗った。嫡男昌直は、武田信廉の家臣に殺害されたため、金丸家は四男定光が継ぐことになった。この定光は、天目山まで勝頼に付従い殉死した。
【探索のヒント】惣蔵の墓ABへ行くには、甲斐市「双田道交差点」から国道52号線を南下、中部横断自動車道をくぐる側道に入りまた南下します。2キロほど行った左手に、案内板があります。駐車はもう少し先の右手の丘にある長盛院の駐車場を使いました。惣蔵の墓所には金丸一族の墓もあり、右から3番目墓には惣蔵の兄で天目山で散った金丸定光も葬られていますC。尚、長盛院の本堂@は昨年まで昔の家屋でしたが建て替えられました。
【駐車場】長盛院駐車場
【バス】山梨交通バス「野牛島下」
M姫が淵―甲州市大和町初鹿野【MAP】
北条夫人に付き従った若い侍女達16人が身を投じた日川は姫が淵と呼ばれるようになった。この人数も勝頼を守って死んだ兵士の数と同じく諸説あって23人とも言われる。
【探索のヒント】景徳院前の駐車場にこのレリーフがあります。日川上流の発電用のダムで水量が減ってここから飛び降りてどうなりそうか想像できませんでした。
【駐車場】専用駐車場
【バス】大和地域巡回バス「景徳院入口」
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