@呂久の渡し
【探索のヒント】
 
@A
A岩村城―恵那市岩村町城山
甲州攻めに際して信長は岩村城主河尻秀隆と滝川一益に対して今回の戦いは武田家の掃討戦となり一方的な戦いとなるであろう。そうなると若い信忠の事、周りが見えなくなって無茶をするかもしれない。くれぐれもそうならないよう補佐して欲しいと申し送っている。また出陣前に信長は信忠に「秀隆は自分が「うつけ」と侮られた時代でも離反することなく忠実に働いてくれた心から信頼できる者であり剛の者である。今度の遠征では秀隆を父と思って何でも相談するが良い」と言い渡した。
秀隆が甲府へ移り同じく東美濃の要衝兼山城主森長可も海津城へ移ると岩村城は森蘭丸に与えられた。しかし蘭丸は信長に側近くに仕えていたので城代の各務清右衛門
兵庫助元正)が切り盛りすることになる。本能寺の変後、長可・忠政が城主となるがやはり各務兵庫が城代となって城を守った。
岩村城は河尻秀隆が城主になった天正3年から森忠政が川中島へ移る慶長4年までの24年間手を加えられ近世城郭へと変貌していった。慶長6年(1601)松平家乗が初代岩村藩主としてここに来た時、ほぼ現在の姿になっていた。家乗は石垣や建物の補強をし麓に藩邸を建てた。これは城から独立したものでなく石垣に地下道も備えた防御設備の整った岩村城の一角を担うものだった。
【探索のヒント】本丸を東曲輪から@上っていくと立札Aがありました。ここに信長の泊まった施設があったのか岩村城に泊まりましたよという意味なのかは分かりません。
【駐車場】岩村歴史資料館駐車場または出丸駐車場
【最寄りの駅】明知鉄道「岩村駅」
【最寄りのバス停】東鉄バス恵那市自主運行バス上矢作線「岩村上町」
 
@A
B
B浪合関所―下伊那郡阿智村浪合【MAP】
中山道の裏街道として三河から伊那谷を抜け信州に向かう伊那街道に武田信玄は南信濃の動静を監視するため、いくつも関所を設けた。そのひとつ瀧之澤にあったとつばせ関所が浪合関所の前身である。1621年とつばせ関所から約5キロ北の浪合宿町頭に関所が移された。1721年浪合川の氾濫で村の半数以上の家が流されたため今史跡として残っている場所に移された。このとき水難防止を祈願して弁財尊天が町頭に祀られた。
信玄時代、土豪の浪合備前が警備に当たっていた。浪合備前は剣豪で鳴らした人物である。その後飯田城主毛利氏・京極氏を経て幕府直轄領になり駒場代官宮崎氏、旗本村上氏、阿島の旗本知久氏が支配した。
【探索のヒント】@とつばせ関所跡は国道153号線沿いにある「道の駅 信州平谷」とその北にある「柳川橋」の間にある瀧之澤城の看板の横から下った旧国道153号線にあります。駐車場はないのでこの看板付近に路駐しました。
浪合関所へは勝頼首実検の地へ行ったついでに行きました。国道153号線の飯田方面からだと浪合トンネルを出て左、平谷村からだとトンネル手前の右へ向かう側道を進みます。川を渡った左側の木の下に「町頭 波除」の説明板と
A弁財尊天の石碑があります。右へ向かう細い道に「浪合関所」看板があるのでそれに従っていくと車止めがあり、「浪合関所までここから100メートル」との案内があります。車止め付近に2台の駐車は可能です。あとは山道を進んで行くとB関所の門が復元されています。周辺には礎石や石垣が残っています。
とつばせ関所跡:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】西部コミュニティバス「うつぼ」
浪合関所:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】西部コミュニティバス「上町」
 
@A
C勝頼首実検の地―下伊那郡阿智村浪合【MAP】
勝頼は味方が次々討取られる中、奮戦してついに力尽き自刃した・・・というのが「甲陽軍鑑」「甲乱記」にある勝頼の最期だが別の話では勝頼は具足櫃に腰掛けていたという。勝頼の嫡男信勝が討死し、勝頼を最後まで守りつづけた土屋昌恒が滝川儀太夫に討取られた直後、福島正則の家臣だった伊藤伊右衛門永光が側面から勝頼に切りかかった。勝頼はこれを太刀で防ごうとしたが空腹と疲労と寒さで動けず、一刀のもとに切り伏せられたという。永光の同僚津田小平太がこれを目撃、記録に残している。勝頼の首は永光の鞍に括り付けられ信忠のもとへ運ばれた。このとき他の首も届けられていたため、誰の首か分からなくなり、当初勝頼を守って死んだ小原継忠の首とされた。しかし永光の馬の毛が付いていた事から勝頼のものとようやく分かり、信長のもとへ届けられた。この使者は「常山紀談」では滝川荘左衛門、「信長公紀」では関与兵衛と桑原助六としている。
この「常山紀談」には勝頼の首に対し信長は罵り、杖でつついて足蹴にしたとある。「披沙揀金」には信長は「その方の父の信玄は我らに対し種々の道義に反したことや道ならぬことを行なった。その天罰は逃れ難く、その方も身を苦しめて国を失い、今このような姿に成り果てたのだ。最後に至って思い知ったであろう。各々方ご覧になるがよい、良い気味ではないか」と言い放ち、勝頼の首を辱(はずかし)めた。これに対し家康は首を三方に乗せさせ、掛けていた床机から下りてその首に向かい、両手をついて「これもひとえに御若気のためでありましょう」と優しく語りかけ、勝頼の無念に同情したと記する。
【探索のヒント】国道153号線から県道243号深沢阿南線へ入ります。浪合交差点の信号かその南の出光のガソリンスタンドの横の道から入れます。川沿いを進んで行き、最初の川を渡る広い道(バス通り)へ入ります。丁字路の左角に「浪合郵便局」がありその向かいに首実検の地の碑が建っています。この丁字路を右へ向かい、国道153号線へ出る途中に浪合関所への道があります。
【駐車場】なし 【最寄りのバス停】西部コミュニティバス「浪合」
 
D小諸城
【探索のヒント】
 
@A
B
C
E法泉寺―山梨県甲府市和田町
京・六条河原に晒された勝頼の首は
妙心寺(京都市右京区花園妙心寺町64)Cの南化和尚に渡された。塩山の恵林寺が妙心寺の末寺という縁で武田家と親交のあった南化和尚は妙心寺にその首を手厚く葬った。それを知った法泉寺の快岳和尚が勝頼の歯髪を貰い受け甲府へ戻った。しかし甲斐は織田家に支配されていたので快岳和尚は寺に持ち帰るのを断念、寺の北方帯那穴口の三上家を頼った。この動きを不審に思った織田の兵が和尚のあとをつけた。和尚も織田の動きに気づいて三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へ勝頼の歯髪を隠して難をのがれた。この話が地元に伝わる「けこみ(首級)牛蒡」である。やがて本能寺の変で信長が死に家康が甲斐を治めるようになると武田の旧臣を手厚く扱い、甲斐の人心の掌握に努めた。このおかげで快岳和尚はようやく勝頼の歯髪を法泉寺に葬ることができた。これを受け家康は法泉寺を勝頼の菩提寺と定めて快岳和尚を中興開山と位置付けた。
法泉寺は南北朝のはじめ夢窓国師を開山に迎え甲斐武田中興の祖武田信武によって建てられた。信武の死後、法泉寺は菩提寺となり、信玄の時代には甲斐五山のひとつとして手厚く保護された。
【探索のヒント】県道7号甲府昇仙峡線(アルプス通り)を北上、緑ヶ丘スポーツ公園の野球場の西側を抜けて左折、次に三つ目の曲がり角を右折して直進すると法泉寺に到着します。駐車場は本堂@の左右にあります。境内に案内板があるのでお墓はすぐにわかります。桜の木の下にあるのが勝頼の墓Bです。この桜は信長の死で織田軍が甲斐を去ったあとに快岳和尚が密かに勝頼の歯髪を埋葬し、その目印に植えたもので奈良吉野の桜と同種のもので甲斐周辺には自生しないものだそうです。その左隣にあるのが武田信武の墓Aです。京都妙心寺にある勝頼の供養塔は開山堂の脇にあります。
法泉寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場  
妙心寺
【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】嵯峨野線「花園」
           【最寄のバス停】市バス・京都バス「妙心寺前」
 
@
A
B
C
D
F鷲峰山法華寺―長野県諏訪市中洲神宮寺【MAP】
この時信長に同行していたのは織田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一・福富秀勝・氏家源六・竹中久作・原長頼・武藤助・蒲生氏郷・細川忠興・池田元助・蜂屋頼隆・阿閉貞征・不破直光・高山右近・中川清秀・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶でそれぞれ出陣前に命じられたとおり少数ながら精鋭の兵を連れていた。
20日この武田討伐のきっかけを作った木曽義昌が訪れ馬二頭を献上した。これに対し信長は梨地の蒔絵に鍍金・地彫りの金具、後藤源四郎作の十二神将像を施された目貫・笄、黄金百枚、並びに本領の他信州の安曇・筑摩二郡を与えた。
この日の夜、穴山信君も信長のもとを訪れ馬を進上した。信長は梨地蒔に鍍金・地彫り金具の脇差と柄まで梨地蒔が施された小刀、下げ鞘・火打ち袋を与え、駿河を除く旧所領(南巨摩郡)と諏訪を与えられた。
松尾城を明渡しその後信忠軍を先導した小笠原信嶺が送った馬は信長が秘蔵とするほど素晴らしい馬だった。信嶺は下伊那の旧領を安堵されている。
21日北条氏政から戦勝祝いの品々が届けられた。
23日滝川一益が信長に呼ばれ上野国、信州小県・佐久を与えられた。そして老齢の一益(57歳)には気の毒だが関東管領として関八州の監視のためもうひと働きして欲しいと頼んだ。さらにこれにて入国すべしと秘蔵の葡萄鹿毛の馬を与えた。この時一益が知行より名物茶器・珠光小茄子を望んだことは有名である。
24日長滞陣による兵糧不足を心配した信長は菅屋長頼に深志で物資の分配を命じた。
26日氏政から馬の飼料として米千表が届けられた。
28日荒天の中、信忠が甲府から信長のもとへやってきた。堅城で名高い高遠城を一日で落城させた褒美と「天下の事も信忠に任せてもよかろう」という信長の言葉に礼を述べるためだったが、酷い天気のため道中凍死者が出たほどだった。
29日最終的な知行割が決まった。家康が念願の駿河一国を手に入れ、森長可は信濃高井・水内・更科・埴科が与えられ海津城を本拠とし、毛利秀頼は伊那郡、団平八は岩村、森乱丸は金山・米田島をそれぞれ与えられた。
また国掟も同時に発布された。長年武田領だったことを考えとにかく領民・土豪の不満が出ないように配慮する一方、怠惰な行いには厳罰を以って当たる事を命じている。
これにより信長の戦後処理が終わり、各武将達はそれぞれの領地へ戻っていた。
以上が「信長公記」に記されていることで有名な光秀の宴席での失言―「武田が滅んでようやく我々の苦労も実りましたな」―を聞いた信長が「お前がいつ苦労したのだ」と激怒して、法華寺の欄干に光秀の額を打ちつけたというのは「祖父物語」に載っている。
【探索のヒント】諏訪大社上社のすぐ隣に@法華寺はあります。往時には七堂伽藍が揃った大きなお寺だった法華寺は天台宗のお寺でしたが鎌倉時代臨済宗に変わりました。上社が織田軍の兵火で跡形もなく焼け落ちましたが法華寺は難を逃れました。
平安時代の神仏混淆思想のもと神社に付属した寺院群を神宮寺と呼び、法華寺もそのひとつでした。法華寺の南側の現在グラウンドゴルフ場になっている一帯が神宮寺でした。
A五重塔跡B普賢堂跡C鐘楼跡と案内板があります。私がここへ来たのはD「武田信玄の碑」なるものがあったからで案内板に従っていくと墓地とは反対の山の中腹にあまり目立たなくありました。何が書いてるのかはわかりませんでした。
諏訪大社に来たついでに是非立ち寄ってください。
【駐車場】諏訪大社上社前の土産物店の無料大駐車場利用
【最寄りの駅】JR中央線「上諏訪駅」「茅野駅」
【最寄りのバス停】かりんちゃんバス「神社前」

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO