| 足利義昭追放<京都府編> |
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| 経過 |
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| 元亀4年(1573)7月3日足利義昭は@二条城に幕府奉行衆を残して南山城のA槙島城に入って再び織田信長に反抗した。 7月5日この知らせをB佐和山城で受けた信長は翌日完成したばかりの巨大輸送船に大軍を乗せC坂本城に移動、7月7日には京に入り二条城に近いD妙覚寺に陣取った。二条城側ではあまりに早く織田の大軍勢が来襲したため戦意を喪失して7月10日には開城を決意した。ただ三淵藤英だけが最後まで抵抗していたが柴田勝家に説得されて12日降伏した。 16日先陣は義昭が籠もる槙島城を目指して南下を開始した。 17日二条城を出た信長は18日にE柳山に本陣を構え、軍を二手に分けた。午前10時一隊はF宇治川を渡りG平等院の北側から槙島城を攻め、もう一隊はH五ケ庄から槙島城へ向かった。I中州にたどり着き兵を一旦休ませたあと一気に城門目指して攻撃を開始した。七万とも言われる織田軍の攻撃に義昭軍はなすすべなくまもなく抵抗をやめた。信長は散々苦しめられた義昭を許した。それはこの後将軍殺しのレッテルを貼られることを嫌ったかそのように助言されたからであろう。義昭は信長に2歳の息子義尋を人質に出して槙島城を退去、羽柴秀吉の警固のもと、はだしで取るものもとりあえず身につけたようなみすぼらしい格好で「貧乏公方」と人々の嘲笑を受けながらJ枇杷庄、K木津から三好義継の若江城へ落ちていった。 |
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参考資料
歴史散策・宇治市史(宇治市歴史資料館) 京都市考古資料館 つちの中の京都2(京都市埋蔵文化財研究所)