@A
BC
D
@二条城―上京区武衛陣町付近(平安女子学院)
あてにしていた武田信玄が死んだために屈辱の和議を結んだ義昭だったが、今度は顕如に援軍、毛利に兵糧を求めて挙兵に及んだ。義昭は三千七百名の兵を連れて二条城を出て槙島城へ移った。二条城には日野中納言輝資・高倉藤宰相永相・伊勢伊勢守貞興・三淵大和守藤英が残って織田軍に備えた。しかしいざ大軍を前にすると普段からのんびり暮らしている公卿や将軍の取り巻き達は戦意を喪失してしまった。
旧二条城は義昭が本圀寺で三好勢の襲撃を受けたため新たに信長によって13代将軍義輝が暗殺された御所跡に建てられた。造営は永禄12(1569)年2月から着手され、11カ国から侍や人夫が1万5千から2万5千人動員され二重、三重に石垣を積んで南に門、西南に櫓をあげ城としての機能も備えた。その様子はルイス・フロイスが記録している。二条城建設に当たり、本圀時が解体されてその調度品などが運び込まれ、石垣には石仏・五輪塔・石灯籠・庭石が利用された。南北はパレスサイドホテルから丸太町通りの4百b、東西は新町通りまでの3百bの規模だった。地下鉄烏丸線工事に伴う調査で,東西方向の濠の石垣が4箇所で発見されたことは有名。この後城は放置され安土城築城に利用されたり、植えられていた木々も移植された。
【探索のヒント】平安女学院の一角に碑が立っています。ちなみに04年春先に来た時は碑は柵の内側@でしたが11月には碑が見えるように柵の位置Aが変わっていました。石垣は二条城の「西橋」の前にあるトイレの左側Bと京都御苑「椹木口」横の植え込みCにあります。平安女学院は京都御苑の近くなので御苑の駐車場を利用したほうがいいと思います。3時間まで500円です。この時間を利用して京都市考古資料館に行ってきました。二条城は1時間200円の駐車場がありますが国道をはさんで反対側にコインパーキングがあるのでそのほうがお徳かも。また京都市洛西竹林公園Dと京都府京都文化博物館には発掘された石仏が展示されています。
◎二条城跡
平安女学院
【MAP】 
【駐車場】京都御苑駐車場
 【最寄り駅】地下鉄烏丸線「今出川」
◎石垣
二条城:
【MAP】  【駐車場】二条城駐車場
     【最寄り駅】地下鉄東西線「二条城前」 【最寄バス停】市バス「烏丸下立売」
京都御苑:
【MAP】 【駐車場】京都御苑駐車場 【最寄り駅】地下鉄烏丸線「今出川」
◎石仏
京都市洛西竹林公園:
【MAP】 【駐車場】竹林公園駐車場
              【最寄りの駅】阪急京都線「桂駅」
              【最寄りのバス停】市バス西3・西8「南福西町」
京都府文化博物館:【MAP】 【駐車場】専用駐車場 コインパーキング
           【最寄りの駅】地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」
            【最寄りのバス停】市バス「堺町御池」
 
@A
B
A槙島城―宇治市槙島【MAP】
槙島城に入った義昭のもとに三好康長、遊佐信教、根来衆が加勢にやってきた。それでも三千七百の兵では織田の大軍に攻撃をされては支えきれるわけではない。そこで頼るのは本願寺であるが顕如としても信玄のような巨大な存在があってこそ信長包囲網を完成できるが今回のような義昭の私恨のような戦いには全面協力したくはなかったようで形ばかりの援軍しか出していない。
槙島城は足利将軍の奉行衆だった真木島氏の居城だったが応仁の乱で1499年細川氏のものとなった。1520年近江に逃げていた足利義稙によってようやく真木島氏は城に戻ることができた。義昭時代は真木島昭光が城主で義昭追放後もずっと行動をともにした。
槙島城はかつて宇治川が流れ込んでいた巨椋池にある島にあった。本丸は島の南端にあって宇治川本流を背にした難攻の城だった。これに目をつけた義昭は最後の抵抗の場としてここを選んだ。時間稼ぎすれば本願寺が援軍に現れると踏んでいたのだろう。しかし、挙兵からわずか2週間で城は落ちてしまった。しかしこの城の戦略的価値は高く信長親衛隊の原田直政が城主となる。大和守護となると山城・大和衆を率いて合戦に参加した。直政の戦死後すぐに筒井順慶の娘婿井戸若狭守良弘が城主に任命されたことから槙島城の重要性が伺える。その後も筒井順慶や浅野長吉が城を守るが伏見城築城と宇治川堤防の工事のため城は解体されその石、土が利用された。城のあった場所は茶畑となる。
【探索のヒント】車でも十分入ってこれるとは思いますはが十分な駐車スペースがないので堤防のそばの防火施設の前に車を停めて歩き回りました。碑@は見落とすぐらいの粗末なものです。碑の左の畑Bあたりが本丸です。その裏手がAの写真で右側に道路があってそれが宇治川につながっていました。
【駐車場】なし 【最寄バス停】京阪宇治交通111系統「槙島」
 
@A
B佐和山城―滋賀県古沢町【MAP】
上京に火を放って一旦義昭と和睦した信長だったが義昭が再び挙兵するのが予想されたため、5月15日佐和山城来て京で変が起こったときに
琵琶湖を横断してA一日で京へ行けるよう丹羽長秀を奉行に岡部又右ヱ門らの職人に長さ54メートル、幅13メートルの大型輸送船の建造を命じた。義昭再挙兵の知らせは吉田神社吉田謙和が知らせてきた。水上で45キロ離れた坂本城までは予定通りその日のうちに到着した。
【探索のヒント】佐和山城へは国道8号線から彦根城へ向かう県道518号線へ入り「船町東」の交差点を右折します。直進して右手に「佐和山城ハイキングコース」や「龍譚寺」こちらの看板に従って右折、JRの踏切を渡りすぐ左折すると佐和山城搦手からの登口である「龍譚寺」へ到着します。
佐和山城について詳しく知りたい方は
こちら
【駐車場】「龍譚寺」横に駐車スペース 【最寄バス停】彦根ご城下巡回バス「龍潭寺」
 
C坂本城―大津市下坂本町
比叡山焼討ちのあと滋賀郡支配のために築かれた。
 
B妙覚寺―中京区上妙覚寺町・下妙覚寺町周辺【MAP】
先遣隊が祇園に陣取った後信長が到着した。その後妙覚寺に入って二条城に圧力を加えた。もともと戦闘能力の低い公家衆や武将が城に残された形になったので織田軍がすぐそばに陣を張っただけでかなりの脅威を感じ、すぐに降伏した。その中で三淵藤英だけが抵抗を示した。
妙覚寺は日蓮宗の寺で天文法華の乱で城砦化された。このほかにも日蓮宗の寺は山科本願寺との戦いに備えて城砦化されたものは多くある。
【探索のヒント】二条城のそばの100円パーキングで車を停めて自転車でやってきました。上妙覚寺町・下妙覚寺町というのが唯一ここに妙覚寺があったことがしのばれます。碑もありません。現在の妙覚寺とは場所が全く違います。京都市考古資料館の遺跡分布地図には妙覚寺城とあり、学芸員の人に聞くと寺でも城砦化されたら城として扱われるそうです。ですからその資料では「本能寺」ではなく「本能寺城」になっています。
【駐車場】Times「室町御池」 【最寄り駅】市営地下鉄「烏丸御池駅」
 
@A
C柳山―宇治市五ヶ庄三番割34【MAP
16日に織田軍が槙島城に向けて出発した翌日信長は京を出て柳山に陣を張った。
万福寺の裏山Aと推定される。
【探索のヒント】具体的な場所は分からないので万福寺の裏手で高台を探しました。万福寺の墓地が目に付いたのでそこから槙島方面を見ました@。茂みが邪魔であまり見えませんでした。万福寺の駐車場がありますが霊園はうまくいけば無料で使えます。
【駐車場】万福寺駐車場 【最寄り駅】JR「黄檗駅」 京阪電車「京阪黄檗駅」
 
@A
D宇治川【MAP】
宇治川を渡って平等院から槙島城を攻める軍は稲葉一鉄・息子右京助貞通を先陣とする美濃衆で斎藤新五・氏家直通・安藤守就、不破光治・息子彦三直光、丸毛長照・息子兼利、飯沼勘平・市橋長利・種田助丞らが続いた。流れが速い宇治川の渡河は木曽義仲討伐で梶原景季と佐々木高綱が先陣争いを演じたのと
同じ地点Aからとなった。
【探索のヒント】平等院周辺の駐車場に車を停めて歩いて散策しました。宇治橋の向こうに見える煙突@が平等院から槙島城に向かうときに休息した中洲です。
【駐車場】民間駐車場 
【最寄り駅】JR奈良線「宇治駅」 京阪電鉄宇治線「京阪宇治駅」
 
E平等院―宇治市宇治蓮華【MAP】
平安・鎌倉期の宇治川橋をめぐる戦いには陣地として必ず登場した。宇治川を渡った美濃衆を中心とする部隊はここで集結、更に槙島城を目指した。
【探索のヒント】観光地なので周辺には駐車場がいくつもあります。私が停めたのは土産物屋さんがやってる所で1日700円でした。平等院に行くのは初めてでした。第一印象は「思ったより汚い」でした。もっとも綺麗だったら興ざめしてたと思うので難しい建物ですね。お城は汚くても納得できるのはどうしてでしょう。
【駐車場】民間駐車場 
【最寄り駅】JR奈良線「宇治駅」 京阪電鉄宇治線「京阪宇治駅」
 
@A
F五ヶ庄【MAP】
佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、明智光秀、荒木村重、細川藤孝・忠興、蒲生賢秀・氏郷、永原筑前守、進藤山城守、後藤喜三郎、永田刑部少輔、山岡景隆・景宗、山岡景猶、多賀新左衛門、山崎源太左衛門、平野長治、小河孫一、弓徳左近兵衛、青地千代寿、京極高次、池田孫次郎(以上信長公記のまま)がここから宇治川を渡った。はじめ宇治川の流れに二の足を踏んでいた兵たちも信長自身が「お前たちが行かないのなら俺が先に行くぞ」との言葉に次々と槙島城へ向かった。
【探索のヒント】JR黄檗駅一帯が五ヶ庄@といわれるところです。現在陸上自衛隊の補給所や京大研究所がある辺りは岡本といいますがそこまで宇治川が迫っていた可能性があります。散策するには堤防の隠元橋の近くに車を停めるスペースがあるのでそこを利用してはどうでしょう。填島側の堤防を越えて宇治川に出て京滋バイパスをくぐった所の対岸が五ヶ庄Aです。対岸一面が織田軍の幟で覆われているのを見た義昭の気持ちはどうだったのでしょうか。負けず嫌いの公方のこと「受けて立ったろうやないか」だったと思います。
【駐車場】なし 
 
@
G中州【MAP】
流れの速い宇治川を渡って一旦中洲に上陸した軍勢は急速後槙島に上陸した。この中洲は現在は埋め立てられ戸ノ内となってる。また平等院から向かった軍は現在ユニチカ宇治工場がある辺りに上陸した。
【探索のヒント】100円パーキングなどないので@の写真の道の横にある汚い建物(防火用施設)の前に駐車スペースがあるので(本当は駐車禁止)短時間なら良いでしょう。私はここに停めて槙島城跡へ行きました。
【駐車場】なし 【最寄バス停】京阪宇治交通111系統「槙島」
 
@A
B
C
H枇杷庄―城陽市枇杷庄「MAP」
秀吉の護衛の下義昭は河内へ向かった。山背(やましろ)古道を使ったのか木津川を下ったのか不明だが義昭は一旦枇杷庄へ立ち寄った。途中一揆に襲われて所持品を奪われているところから考えると警護の者も大して居なかったのではないだろうか。
京都から奈良へ流れる木津川は枇杷庄で大きく東へ流れを変えている。このように川や湖に面し大きな湾曲を有する地形には語源が「水輪(みわ)」である「枇杷」の呼称がつけられている。この説によれば「琵琶湖」も琵琶の形に似ているのが名前の由来ではなく湖の南の形が名前の由来ということになる。このような地形であるため枇杷庄は洪水の被害によく遭った。そのため住民たちの神仏への崇拝も高く狭い地域にもかかわらず天満宮(市指定文化財)A阿弥陀寺(木造薬師如来立像は国指定重文、木造阿弥陀如来座像は市指定文化財)B庚申堂Cがある。いずれの建物も江戸時代に入ってからのものだが枇杷庄のある南山城は1485年山城国一揆で守護大名畠山氏から独立し国人衆による自治を達成したように村落としての歴史は古い。
【探索のヒント】ここへは2度来ましたが住宅地で道も狭く駐車スペースが無く困りました。とりあえず堤防沿いの道幅の広い場所に路駐しました。歩き回ってもさほど時間を取ることはありません。国道24号線「富野交差点」を西へ向かい近鉄京都線の高架をくぐった辺りから枇杷庄です。児童公園にある枇杷庄の大クスノキ@は町のシンボルです。
【駐車場】なし 【最寄り駅】近鉄京都線「富野荘駅」
 
I木津「MAP」
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