@武者小路―京都市上京区徳大寺殿町
【探索のヒント】
 
 
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A私部(交野)城―交野市私部6丁目【MAP】
久秀は若江城の三好義継の協力を得て山口六郎四郎・奥田三河に3百の兵を預けて私部城を包囲させた。しかし同日河内方面へ出陣した佐久間信盛・柴田勝家・明智光秀・細川藤孝・蜂屋頼隆・斎藤新五・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・不破光治・丸毛長照・多賀新左衛門・三淵藤英・上野秀政・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら織田軍・幕府軍2万に逆に包囲されてしまった。久秀らは天候が悪化したのを幸いに夜陰に紛れてそれぞれの城へ引き上げた。私部城救援軍はそのあとを追って久通が籠城した多聞山城を包囲した。大軍を前に久秀は久通を人質に差出し、多聞山城から退いた。多聞山城には佐久間信盛、明智光秀が城番として入った。
安見氏は南北朝時代楠木氏討伐のために河内守護になった畠山義深に従い遊佐氏・木沢氏と共に守護代となった。応仁の乱で畠山氏の力が衰えると河内の実権を巡って木沢長政と遊佐長教が対立、1542年三好長慶の協力を得た長教が長政を討ち取り河内を手中に収めた。しかし1561年長教が暗殺されると安見宗房(直政)が畠山高政を擁立して実権を握った。このあとが非常にややこしくなる。三好長慶が畿内に進出すると高政・宗房は近江へ逃亡。六角氏に助けられて高屋城へ戻った高政だったが宗房に追放される。すると高政は長慶と和睦して今度は宗房が追放された。しかし長慶に無断で高政が宗房を許し守護代へ復帰させたため、再び高政・宗房と長慶とが争うことになった。その後和泉久米田の戦いで高政は長慶軍に大勝するが松永久秀と三好三人衆に敗れ紀州に逃れた。この頃から長慶に衰えが見え始め高政と和睦、高政は高屋城へ戻ることができた。高政は信長が上洛するといち早く誼を通じ、三好義継と共に河内守護に任じられた。その翌年永禄12年高政は直政らに追放され代わりに弟の昭高が擁立された。その直政は元亀2年5月の松永勢との戦いで命を落とし子供の新七郎が跡を継いだ。
【探索のヒント】私部城は交野山から西へ繋がる丘陵地の西の端にあり東高野街道・岩船街道・かいげけの道を監視する役目がありました。交野郵便局の東側が本丸といわれています。郵便局を東へ向う生活道路を歩いていくと左手に駐車場があり土塁Bが確認できます。ここが二の郭です。さらに進んで住宅の横の農地に私部城の碑@があります。ここが本郭ですが北側の市道私部春日線から見た方が土塁や切通しAが確認できて見応えがあります。この本丸から南東にある光通寺Cが出郭です。「交野歴史健康ウォーク」からプリントアウトした地図を片手に07年正月に行きました。城跡近辺では駐車するところがないので交野駅前のコインパーキングを利用しましょう。城跡は土塁や堀切をうまく利用して開発しています。交野市役所の方には私部城が筒井勢に攻められたときに最後まで戦い討ち死にした北田好忠の子孫の立派な屋敷があります。
【駐車場】京阪交野駅前Times 【最寄の駅】京阪電車「交野」 【最寄のバス停】京阪バス「交野郵便局」 
 
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B若江城―東大阪市若江北町【MAP】
河内半国を信長から任されていた三好義継は義昭の妹を娶っていたことから元亀2年(1572)ごろから義昭側についていた。義昭は何としても京へ戻ろうと毛利氏を頼った。毛利家の安国寺恵瓊は信長と事を構えたくないので義昭復帰を信長に打診した。信長はこれに応じたが義昭が和睦の証として人質を要求した。これで交渉は決裂、義昭は若江城にも居られなくなり紀州湯川衆を頼って城を出た。
朝倉・浅井を滅ぼした信長は次に畿内で本願寺と連携する勢力を一掃するために佐久間信盛を派遣した。信盛が義継の若江城を囲むと義昭と連携を止めない義継に愛想を尽かしていた家老たちは信盛の誘いに乗って義継に近い金山駿河を切り殺して織田軍を城内に引き入れた。この謀反劇に義継は織田勢相手に奮戦したが、天守を織田軍に包囲されると妻子を殺して、自ら腹を十文字に切り裂いて果てた。ここに三好家嫡流は滅んだ。そのあとを追って那須久右衛門・岡飛騨守・江川某も切腹した。
その後若江城は三家老に任された。城が廃され
八尾城に統合される天正8年ごろまで、本願寺攻め・高屋城攻めなどで信長が度々滞在したり、今井宗及を招いての茶会が開かれたりした。天正9年2月15日上洛途中のヴァリニャーニ、ルイス・フロイスがこの付近を通ったときにはすでに城は跡形もなく破却されていた。
【探索のヒント】若江城本丸だった公民館付近は駐車する所がないので「若江岩田駅」周辺のTimesのご利用をお勧めします。公民館の東の端に若江城の碑@が建っています。若江城は四方を川に囲まれた湿地帯の中にあったということで城の郭の周りには水路が堀の代わりに設けられていました。その川は第二寝屋川A以外はもはや残っていません。復元図を片手にこの付近を回ると水路だった所Bが大体生活道路になってるので昔の町割が想像できます。また若江城には東西南北に道が走っていたの街道を示す碑Cも残っています。
【駐車場】若江岩田駅にTimes 【最寄の駅】近鉄奈良線「若江岩田駅」 【最寄のバス停】近鉄バス「若江」 
 
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八尾城―八尾市本町
若江三人衆の筆頭池田教正(洗礼名メシアン)の城。熱心なキリスト教徒だった教正はキリシタンを城下に多く住まわせた。義継の死後若江城に居た天正4年城下に教会を作ったりもした。天正5年に一向宗が飯盛山城の支城だった三箇野城を包囲したとき、若江城から兵3百を率いて救援に駆けつけたりした。本願寺が大坂を退去して若江城の役割が終わると教正は執政の中心を八尾城に移した。
八尾城の碑Aは現在八尾神社@境内にあるがその規模はわかっていない。常光寺Bを中心に現在の本町付近という西郷説と旧大和川に面した別宮から八尾座にかけての今の南本町・高美町・安中町であったとする八尾座説がある。
八尾城は南北朝期の八尾の土豪八尾別当顕幸の築城と伝えらる。顕幸が南朝方に帰すると北朝方に占拠され、その河内における重要な拠点となる。1337年南朝の高木遠盛らは八尾城の奪還をはかり合戦となり城内の堂社・仏閣・矢倉・役所などがことごとく焼失した。
八尾は物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」が居たとか尾先が八枚に分かれた鶯の名所だったのでこの名が付いたとも言われる(八尾教育委員会)。常光寺は「流し節正調河内音頭」発祥の地である。この音頭誕生には足利義満が関わっているという。時代が下って大坂夏の陣では藤堂高虎がここで首実験をし、そのときの縁板は血天井として残されている。
【探索のヒント】八尾城の碑がある八尾神社も常光寺も商店街のすぐそばにあるので車では入って行けません。コインパーキングに駐車しましょう。ただし近鉄八尾駅の南西にある丹波屋の近くのパーキングは要注意です。おつりが出ないのです。私は400円無駄にしました。八尾神社は近鉄八尾駅から高架に沿って西へ行きます。八尾ファミリーロード(商店街)と交差する地点から左へ向かい最初の左へ入る細い道を進むと左手に神社があります。かなり行くのに難儀しました。その点常光寺は先の八尾ファミリーロードに「常光寺こちら」の看板があります。
◎八尾神社:【MAP】 ◎常光寺:【MAP】
【駐車場】近鉄八尾駅Times 【最寄の駅】近鉄大阪線「八尾」 【最寄のバス停】近鉄バス「近鉄八尾駅前」

 

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