信長・義昭上洛戦<岐阜県編>

経過
永禄8年(1565)年5月15日13代将軍足利義輝@邸三好義継・松永久秀の軍に囲まれた。義輝は奮闘したが自刃して果てた。義輝の実弟覚慶A奈良興福寺一乗院門跡で松永軍の監視下に置かれていた。7月28日覚慶細川藤孝一色藤長朝倉義景の計画により幽閉されていた興福寺一乗院を脱出和田惟政B館に入ることに成功した。ここで覚慶は全国の大名に幕府再興を訴える書状を出した。11月21日覚慶和田惟政居館からC矢島へ移る。
還俗して義秋と名前を変えた覚慶翌永禄9年8月29日六角承禎三好勢についたのでD後瀬山城武田義統を頼って小浜に移った。9月8日朝倉義景の奔走によって義秋E金ケ崎へ移る。11月21日義秋義景に上洛を促すためにF一乗谷へ赴くが義景は動かなかった。G安養寺に居を与えられた義秋は2年近くをここで過ごすことになる。
永禄10年12月1日織田信長義秋を近々上洛させることを和田惟政に報告した。
永禄11年になって義秋上洛が具体的な計画になり、7月13日ようやく義昭(4月に元服して改名)は村井貞勝島田秀順の道案内で一乗谷を出発した。16日H小谷城信長の妹婿浅井長政の饗応を受けたあと25日岐阜に到着した。27日岐阜I立政寺義昭と対面した信長は南近江の六角承禎に上洛の協力を要請するため近江に向かった。
8月7日J成菩提院を宿所にした信長浅井長政の家臣磯野員昌K佐和山城で歓待を受けた。その後一週間六角氏と交渉したが協力は得られず、武力によって上洛を果たすことになった。
9月7日三河・徳川家康の援軍、先年支配下に置いた北伊勢、本国尾張、美濃の兵を動員しL平尾御坊に陣を張り、8日近江高宮に進んだ。
                                    
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