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@足利義輝邸―京都市上京区武衛陣町【MAP】
三好長慶に幕府の実権を握られていたが義輝は地方の大名の紛争を調停したり、官位を斡旋するなど将軍家再興に向けて積極的に動いた。1564年7月4日長慶が死んだことで義輝はさらに積極的に動き出した。将軍はあくまでも飾りであって欲しい松永久秀・三好義継・三好三人衆は義輝排除を決めた。
午前6時ごろ1万3千の軍が将軍邸を囲んだ。屋敷には7百人足らずが守るだけだった。塚原卜伝・上泉信綱に教えを受けた義輝は剣豪だったという。義輝は敵の武者を次々と切り倒し、刀の切れが悪くなると何本も畳に刺して置いた刀に替えさらに敵を切った。しかし畳に刺した刀の数も義輝の体力にも限界があった。続々と邸内に攻め込む敵にも穂やこれまでと義輝は輿の中で自害した。河端左近大夫輝綱が介錯し、義輝の顔を切り刻んで火中に放り込んだ(江源武鑑)。義輝はほんの20日前偏諱を与えた義継(前は三好重存)によって30歳の波乱に富んだ人生を終えた。
【探索のヒント】平安女学院中・高部の自転車置き場に碑@Aはあります。地名からわかるとおり元は斯波氏の館があったところです。学校の北側の下立売通、東側の烏丸通は交通量が多いので路駐は無理です。碑があるのは西側の一方通行の道です。交通量はあまり多くはありませんが邪魔になるので駐車場に置いたほうがいいと思います。
【駐車場】京都御所駐車場 【最寄り駅】地下鉄丸太町駅
 
A興福寺―奈良市登大路町【MAP】
一条院門跡覚慶は12代将軍足利義晴を父に持つ。義継・久秀は義昭が興福寺を継ぐ限りは命を奪わないと約束したが、藤孝・惟政は将軍を手にかけるような連中の約束など信じられぬと義昭を興福寺から脱出させた。この脱出に関して久秀があえて見逃したという説もあり、これが久秀と三人衆との対立の原因にもなったといわれる。
藤原氏の氏寺である興福寺は僧兵も置き、鎌倉末期に隆盛を向かえた。興福寺の住職になるには一乗院か大乗院の門跡にならねばならず、双方は抗争を繰り広げた。覚慶の後門跡になったのは関白近衛前久の子供であった。
【探索のヒント】近鉄奈良駅の東側が興福寺ですが一条院のあった場所は国道369号線を挟んだ北側の裁判所にありました。
【駐車場】周辺に多数あり 【最寄り駅】近鉄電車「奈良駅」
 
B和田館
 
@A
C矢島御所―滋賀県守山市矢嶋町
和田惟政の元にあった覚慶だが南近江の六角義賢(承禎)が覚慶を将軍職へ就けるよう協力するということで矢嶋へ移ってきた。父義晴も兄義輝も三好長慶に京を追われた時に頼ったのが六角氏であった。ところで覚慶がここへ移ってきたのがこの年の8月としている資料がある。それによると六角氏家臣平井加賀守が他の家臣とともに奈良から覚慶を護衛し3日観音寺城に到着した。その後覚慶と居を同じくするのは恐れ多いとして六角氏は矢島に御所を作ってそこへ移ってもらった。9月(翌年2月ともいわれる)になって少林寺で還俗して義秋となった覚慶は11日勅許のないまま将軍を自称し、三好衆に対抗した。12月5日信長から義秋上洛の御内書に応じると藤孝に連絡があった。翌9年3月8日武田信玄は義秋上洛にはお供できないと返事している。2月17日の宮中へ初めての献上のおかげか4月20日従五位下に叙せられ左馬頭に任じられている。
少林寺は一休宗純と縁があり境内にあるギンモクセイは一休手植えのものとされるほか、日本には三体しかない一休木像の一つがある。
【探索のヒント】矢島御所跡は矢島自治会館の前に碑@があります。県道26線(浜街道)「赤野井」交差点を北へ向かうと比較的広い信号のない道と交差しています。それを東へ向かいます。右手にグレーの屋根の仕出屋さんがあるのでその交差点を左折してひたすら直進すると自治会館へ到着します。少林寺Aは自治会館から西にあります。
【駐車場】矢島自治館前に数台分 矢島御所:【MAP】 少林寺:【MAP】
 
D後瀬山城
 
E金ヶ崎城
 
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F一乗谷―福井県福井市城戸ノ内町・東新町
永禄10年3月朝倉家家臣で坂井郡の有力国人堀江景忠が敵であった加賀の一向宗と手を結んで義景に反旗を翻した。魚住景固・山崎吉家を総大将に堀江攻めを敢行、どうにか景忠を追放、国内が安定した11月21日敦賀から義秋が一乗谷に移って来た。義景は一乗谷の南にある安養寺の隣に義秋の住居(御所)を建てここへ迎えた。27日義景が御所を訪れ盛大な宴が開かれた。翌11年3月にも南陽寺で酒宴や歌会が催されている。4月上旬京都から関白二条晴良が征夷大将軍の院宣を持ってやってくると義秋は安養寺に迎えた。これを機に義秋は元服、名を義昭と改めた。これを祝う酒宴が繰り広げられたがこれは5月も6月も行われた。しかし義昭が望むのは上洛する事だったのでそれに向け一向に腰を上げない義景に半ば失望していた。その間に義景の嫡男阿君(くまぎみ)が7歳で死去した。これは国を治めることができないほどの衝撃を義景に与えた。ここにきて義昭は義景を見限った。
但馬国朝倉から興った朝倉氏が斯波氏の被官として越前・黒丸城に移ったのが南北朝時代である。その後斯波氏の内紛に乗じて孝景が斯波氏に代わって越前を支配下に置いた。その拠点が一乗谷である。応仁の乱後、氏景−貞景−孝景−義景と五代100年の間、越前守護として国を守りつづけた。
義昭の住居である御所の南にあった安養寺は朝倉孝景が顕要和尚を開山として建立したとされる。天正元年の織田軍乱入により焼失したが西山光照寺・南陽寺とともに一乗谷では大規模な格式の高い寺院であった。
天台宗真盛派開祖の真盛上人が貞景に招かれここで説法を行い、感銘を受けた貞景が帰依した。これにより真盛派は朝倉氏の保護を受けるとともに多くの朝倉家家臣も帰依する事になった。
【探索のヒント】一乗谷@は福井市を代表する観光地なので車で来る分には何の不便もありません。通常ルートは北陸自動車道道福井ICから国道158号線を東へ10分ほど走った「天神交差点」を右折、「天神橋」を渡り左折、JR越美北(九頭竜)線の踏切を渡ってすぐ右折して一乗谷へ入ります。ここから南へ約2キロ史跡が点在しています。一乗谷復元町並Cの駐車場へ車を停め、ゆっくり散策しましょう。ここから有名な朝倉氏館跡A南陽寺跡Bはすぐです。復元町並みから約4百メートル南へ行くと右に一乗小学校のある交差点に出ます。ここを左折して少し行くと左に緑鮮やかな曲輪跡のような物があります。右が安養寺跡Dで左が御所跡Eです。路駐になるので少し戻った「一乗ふるさと交流館」の駐車場を利用しましょう。安養寺跡には遺構がかなり残っていますが御所跡は開発されてしまいほとんど残っていません。
【駐車場】一乗谷復元町並み駐車場 一乗ふるさと交流館駐車場
朝倉氏館:
【MAP】 南陽寺:【MAP】 復元町並み:【MAP】
安養寺跡・御所跡:【MAP】
【最寄の駅】JR越美北線「一乗谷駅」
【最寄りのバス停】京福バス鹿俣・浄教寺行き「朝倉館前」「一乗小学校前」
 
 
G小谷城浅井氏館跡―滋賀県湖北町郡上【MAP】
義昭が奈良を脱出して苦節3年、ようやく上洛の目処がついた。7月18日前波景定と5百の兵に守られた義昭は一乗谷を出発した。敦賀で朝倉景経の兵3百も加わり浅井領の国境を目指した。国境には信長の依頼を受けた浅井長政と近江の兵2千、不破光治、村井貞勝が待っていた。和田惟政が先頭になり義昭一行は余呉湖を右手に見て長政の清水谷屋敷へ向かった。ここで義昭は長政の饗応を受け初めて心安らかな時間を過ごせた。4日間逗留した義昭は7月22日浅井の兵に守られ小谷城を後にした。近江と美濃国境で織田軍が義昭を出迎え、信長との対面所である立政寺へ送り届けた。
【探索のヒント】小谷城の搦手といわれている清水谷の奥に御屋敷跡があります。清水谷は城下町を通る北国脇往還とも繋がって平時の生活はこの屋敷で営まれていたとも推測されます。
【駐車場】小谷城戦国歴史館駐車場 【最寄りのバス停】湖国バス「児童館前」
 
@A
H立政寺―岐阜市西荘
7月25日義昭は美濃から迎えにきた和田惟政・不和光治・村井貞勝・嶋田秀順らと越前を発った。信長が近江と美濃の国境付近まで迎えに着たとの話もある。26日の対面の時には銭や太刀・鎧・武具・馬などが山のように積まれ、義昭に付き従った家来たちも盛大に歓迎された。
立政寺は正平9年(1354)に智通上人により創建された浄土宗の寺で美濃、尾張、伊勢、近江、信濃地方において、浄土宗の中心として位置づけられた名刹だったが寺院の建物も、濃尾大地震で全壊した。境内には開祖・智通上人と蛙の伝説で有名な「蛙なかずの池」がある。
ところで義昭と信長との会見をセッティングした人物として明智光秀が必ず出てくる。斎藤義竜との戦いに敗れ母方の若狭武田氏を頼って出身地美濃を後にしたといわれる。家族を越前長崎の称念寺に預け光秀は見識を広げるため単身諸国へ旅に出る。6年後帰国、朝倉家家臣で坂井郡国人青蓮華景基に召抱えられる。加賀一向宗との戦いにおける見事な戦術と鉄砲の腕前が義景の耳に入った。義景は光秀に安養寺で鉄砲の実演を求めた。光秀は義景の期待に応え百発百中の腕前を披露した。これにより光秀は義景に召抱えられるようになり、一乗谷大手筋に居を構えた
(福井県福井市東大味町)。そして義昭と出会い、信長の正室帰蝶との姻戚関係から義昭上洛の仲立を買って出たと言う説もある。一方、義景があまりに光秀を贔屓にするため、譜代の家臣がそれをねたんで義景に光秀のある事ない事を讒言したことから義景は光秀を遠ざけるようになった。これに嫌気が指した光秀は信長に仕官したとする話もある。
【探索のヒント】車でJR「西岐阜」の高架を越えてから探すのに難儀しました。高架の横の側道に車を停めて歩き回って見つけました。門と碑だけしかないので近所の人に聞いてやっと分かりました。車で入って来るのは邪魔なので徒歩が正解です。
光秀の住居跡には小さな光秀木像を安置した祠のある明智神社があります。この土地を所有する2件の農家によってなんと4百年も守られているそうです。鯖江方面からは県道208徳光鯖江線の「榎坂トンネル」を出て少し行った丁字路を右折、道なりに進んで真っ直ぐ行くと県道238号一乗谷朝倉氏遺跡東大味線に入ります。この道は一乗谷遺跡へ通じています。そのまま走っていくと左手に「明智神社→」の看板が現れ、それに従って右折します。用水路(地元の人は川と言ってました)に添って山の方へ向かうとすぐ左に神社があります。見学だけなら神社のすぐそばにシャッターのある家の前に車を停めさせてもらってください。東大味歴史文化資料館なる建物が同じ敷地内にあり光秀関連の資料があります。
立政寺:【駐車場】なし 【最寄の駅】JR 「西岐阜」【MAP】
明智神社:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】京福バス「東大味」 【MAP】
 
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I成菩提院―滋賀県山東町【MAP】
浅井家の重臣遠藤直経は滞在中の信長を殺害することを長政に提案した。信長に恨みがあったのではなく、国主が代わって国内がまだ安定していない美濃を手に入れる絶好の機会と考えたのだろう。しかし、律儀な長政にその提案は一蹴されてしまった。六角氏を追放したあと9月21日に義昭を迎えるために再度投宿。上洛戦が成功したあと美濃へ帰る途中の10月27日にも泊まっている。その後150石の寺領を寄進した。
成菩提院は最澄が815年に柏原小野に一時留まって小さな建物を設けたのが最初といわれる。鎌倉時代には天台宗の談議所(学問所)として京極氏の手厚い保護もあって繁栄した。1326年越前の平泉寺の衆徒が乱入して寺を焼いたため衰退した。しかし足利義満の願いにより比叡山西塔の名僧貞舜法印(じょうしゅんほういん)が再興、初代住職となった。歴代住職の中には徳川家康の懐刀といわれた天海大僧正がいる。また武将との関わりも深く織田信長・浅井長政・豊臣秀吉などが宿泊しており信長・家康は寺領の寄付もした。天正6年(1578)兵火で諸堂を焼失した。
【探索のヒント】国道21号線「柏原」の交差点を北に向かいJRの高架を過ぎると「成菩提院」の看板が出ています。門のそばに「下馬」の碑Aがあり、武将との関わり合いを感じました。私が行ったのは7月ですが秋はきっと紅葉がきれいだと思います。
【駐車場】成菩提院横に数台分の駐車場 【最寄の駅】JR 「柏原」
 
@A
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J佐和山城―滋賀県彦根市古沢町【MAP】
佐和山城に入った信長は義昭方代表和田惟政に進藤山城守・不破河内守・二宮采女正をつけて箕作城に向かわせた。義昭の上洛に協力してくれたら所司代の役職を約束するとの申し出を三好氏と通じていた六角承禎は拒否した。祖父の代から対立している浅井氏に協力するのも気に入らなかったのかもしれない。これにより六角征伐が決定した。
佐和山はサホ(佐保・棹)山と呼ばれ鎌倉時代はじめに佐々木定綱の六男六朗時綱が山麓に館を構えたのが始まりとされる。15世紀中頃やがて佐々木氏は京極と六角に分かれさらに京極の家臣だった浅井氏を交えた3者の間での争いがはじまると境目にある佐和山は重要拠点になり城塞が築かた。
【探索のヒント】国道8号線「古沢」の交差点を彦根城方面に行くとすぐに「船町東」という交差点があります。そこを右折して細い道を直進します。右手に「佐和山城跡」「龍潭寺」などの標識のある交差点を左折、踏切を渡ってすぐに左折します。直進すると佐和山城への登口である「龍潭寺」にたどり着きます。車でなければ反対側にある南登山口もあります。足場の悪い登山道なので気をつけましょう。私は下山中捻挫してしまいました。本丸以外は整備されているとはいえません。本丸からは観音寺城も一望Bできます。大手門@は佐和山トンネルの鳥居本町側を出てしばらく走ると左に入る道があります。田んぼの真ん中の道なのですぐ分かります。
【駐車場】龍潭寺横に駐車場 【最寄の駅】JR「米原」
 
K平尾御坊―不破郡垂井町平尾【MAP】
中山道「垂井」の北東に位置する平尾。ここには平尾御坊がある。蓮如の孫實慧法眼の二男證榮僧都が開基の眞徳寺が信長に焼討ちにあった伊勢長島の願證寺を継承した。
【探策のヒント】県道216号線を走っていると道沿いに「願證寺」の看板が出ています。旧中仙道「垂井宿」の東に「平尾御坊道」の碑を見つけることができます。
【駐車場】県道沿いに駐車場 【最寄の駅】JR東海道本線「垂井駅」