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@足利義輝邸―京都市上京区武衛陣町【MAP】
三好長慶に幕府の実権を握られていたが義輝は地方の大名の紛争を調停したり、官位を斡旋するなど将軍家再興に向けて積極的に動いた。1564年7月4日長慶が死んだことで義輝はさらに積極的に動き出した。将軍はあくまでも飾りであって欲しい松永久秀・三好義継・三好三人衆は義輝排除を決めた。
午前6時ごろ1万3千の軍が将軍邸を囲んだ。屋敷には7百人足らずが守るだけだった。塚原卜伝・上泉信綱に教えを受けた義輝は剣豪だったという。義輝は敵の武者を次々と切り倒し、刀の切れが悪くなると何本も畳に刺して置いた刀に替えさらに敵を切った。しかし畳に刺した刀の数も義輝の体力にも限界があった。続々と邸内に攻め込む敵にも穂やこれまでと義輝は輿の中で自害した。河端左近大夫輝綱が介錯し、義輝の顔を切り刻んで火中に放り込んだ(江源武鑑)。義輝はほんの20日前偏諱を与えた義継(前は三好重存)によって30歳の波乱に富んだ人生を終えた。
【探索のヒント】平安女学院中・高部の自転車置き場に碑@Aはあります。地名からわかるとおり元は斯波氏の館があったところです。学校の北側の下立売通、東側の烏丸通は交通量が多いので路駐は無理です。碑があるのは西側の一方通行の道です。交通量はあまり多くはありませんが邪魔になるので駐車場に置いたほうがいいと思います。
【駐車場】京都御所駐車場 【最寄り駅】地下鉄丸太町駅
 
A興福寺―奈良県奈良市登大路町【MAP】
一条院門跡覚慶は12代将軍足利義晴を父に持つ。義継・久秀は義昭が興福寺を継ぐ限りは命を奪わないと約束したが、藤孝・惟政は将軍を手にかけるような連中の約束など信じられぬと義昭を興福寺から脱出させた。この脱出に関して久秀があえて見逃したという説もあり、これが久秀と三人衆との対立の原因にもなったといわれる。
藤原氏の氏寺である興福寺は僧兵も置き、鎌倉末期に隆盛を向かえた。興福寺の住職になるには一乗院か大乗院の門跡にならねばならず、双方は抗争を繰り広げた。覚慶の後門跡になったのは関白近衛前久の子供であった。
【探索のヒント】近鉄奈良駅の東側が興福寺ですが一条院のあった場所は国道369号線を挟んだ北側の裁判所にありました。
【駐車場】周辺に多数あり 【最寄り駅】近鉄電車「奈良駅」 
 
B和田館
【探索のヒント】
 
 
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C矢島御所―滋賀県守山市矢嶋町
和田惟政の元にあった覚慶だが南近江の六角義賢(承禎)が覚慶を将軍職へ就けるよう協力するということで矢嶋へ移ってきた。父義晴も兄義輝も三好長慶に京を追われた時に頼ったのが六角氏であった。ところで覚慶がここへ移ってきたのがこの年の8月としている資料がある。それによると六角氏家臣平井加賀守が他の家臣とともに奈良から覚慶を護衛し3日観音寺城に到着した。その後覚慶と居を同じくするのは恐れ多いとして六角氏は矢島に御所を作ってそこへ移ってもらった。9月(翌年2月ともいわれる)になって少林寺で還俗して義秋となった覚慶は11日勅許のないまま将軍を自称し、三好衆に対抗した。12月5日信長から義秋上洛の御内書に応じると藤孝に連絡があった。翌9年3月8日武田信玄は義秋上洛にはお供できないと返事している。2月17日の宮中へ初めての献上のおかげか4月20日従五位下に叙せられ左馬頭に任じられている。
少林寺は一休宗純と縁があり境内にあるギンモクセイは一休手植えのものとされるほか、日本には三体しかない一休木像の一つがある。
【探索のヒント】矢島御所跡は矢島自治会館の前に碑@があります。県道26線(浜街道)「赤野井」交差点を北へ向かうと比較的広い信号のない道と交差しています。それを東へ向かいます。右手にグレーの屋根の仕出屋さんがあるのでその交差点を左折してひたすら直進すると自治会館へ到着します。少林寺Aは自治会館から西にあります。
矢島御所:【MAP】 少林寺:【MAP】 【駐車場】矢島自治館前に数台分 
 
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D後瀬山城―福井県小浜市男山・伏原・浅間【MAP】
若狭守護武田氏を義秋が頼ったのも無理はなかった。若狭守護となってから武田氏は京に近いということもあり、幕府や朝廷の出兵要請に応じてその期待に応えていたからである。だがそれは反面、若狭国内の不安定さを引き起こした。1534年から毎年繰り返される出兵で出費や死傷者は増えるが恩賞は少しという実態に家臣団から不満が出ていた。そうした火種に油を注いだのが武田氏の家督争いである。6代元光が病気を理由に嫡男信豊に家督を譲ると元光の弟信孝が異を唱えた。だが兵力の無い信孝は妹の嫁ぎ先である越前へ行き、朝倉孝景に助力を要請した。
1538年武田氏の本拠小浜の代官粟屋元隆とそれに呼応した大飯郡逸見氏、武田氏に領有されたことに反感を持ち、毎年反乱を起こしていた丹後国加佐郡の武士たちが挙兵した。この機に乗じて信孝を推す朝倉氏も越前を発した。これに慌てたのは武田氏だけではない。小浜に所領のある朝廷・公家・幕府・寺社も同じであった。幕府は朝倉氏に兵を引くように命じ、武田信豊も本願寺証如に朝倉氏の背後を加賀門徒で牽制して欲しいと頼んだ。また自ら粟屋氏の本拠名田荘へ出陣するなどしてこの反乱を鎮圧した。
ようやく反乱を鎮めた翌年、信豊は幕府の要請で畿内で勢力を拡大して来た三好長慶と戦うため京へ出兵。ここから数年おきに三好勢、何度も蜂起する加佐郡武士に対処しなければならなかった。この大変な時にもかかわらず要である武田氏に内紛が起こった。信豊と子の義統のそれぞれの家臣―信豊の近習である永元寺・宇野・畑田・笠間氏と武田家譜代の家臣で義統を支持する山県・上原氏―の対立が原因である。1556年信豊は後ろ盾だった弟信高の死により家督を義統へ譲った。すると今度は元光の隠居分の知行をめぐっての対立となった。信豊は妻(六角定頼の娘)の実家を頼り近江へ脱出した。1558年六角氏の支援のもと若狭へ復帰しようとした信豊だったがそれは叶わず、1561年和議により戻ることが出来た。
こうした主家の権力争いに巻き込まれたくない家臣たちは武田氏から距離を置くようになった。その中で大飯郡高浜の逸見昌経と三方郡佐柿の粟屋勝久はそれぞれの領地で独立を図った。逸見氏は朝倉氏(義統の大叔母が義景の母)の支援を受け押え込んだが、粟屋氏は1563年から1568年まで毎年繰り返される朝倉氏の攻撃をものともしなかった。その最中の1566年閏8月、三方郡井崎の熊谷統直が義統の嫡男元明を擁立しようと挙兵、これに武田氏の本拠小浜の住人も加わった。この反乱は義統の弟信方(遠敷郡宮川)、逸見昌経、武藤友益(大飯郡石山)が鎮圧した。義秋が若狭へ来たのは丁度この直前であった。義統に代わり実権を握りつつあった信方に義秋は上洛の同行を要請した。だが信方は拒否した。これはお上に対する反逆であった。側近、年寄衆の離反を招いた信方は失脚した。このような武田氏に見切りをつけた義秋に母方の叔父大覚寺義俊の斡旋で朝倉義景が救いの手を差し伸べてくれた。それに従い9月8日義秋は越前金ヶ崎城へ去って行った。
若狭守護武田信賢は若狭小浜へ下向、青井山城を築いて本拠としていたが、1519年11月武田家を継いだ元光は父元信が1521年暮死去したのを切欠に丹後や一色家旧臣の攻撃に備え、万葉集にも詠われた後瀬山に防備力の高い城を築くことにした。工事は1522年に始まり現在の姿になるのは1560年代とされる。これと並行して城下の整備も行われた。
1573年朝倉義景の死で越前に居た元明の若狭復帰を旧家臣は望んだが、信長はこれを認めず、丹羽長秀に武田氏の旧領遠敷郡を与え若狭全般の統治を命じた。後瀬山城を居城とし長秀は武田家臣団(若狭衆)を配下とし各地を転戦する。その後、丹羽長重→浅野長政(長吉)→木下勝俊が城主となる。若狭藩主京極高次の小浜城築城により後瀬山城は廃城となる。
【探索のヒント】JR小浜線「小浜駅」の南西の山が城跡@です。国道27号線「後瀬山東交差点」を県道1号小浜綾部線に入って少し行った左側に鳥居があります。その下をくぐり進むと山際に後瀬山城の看板と登り口があります。この城には曲輪について名称が残されていないので看板も曲輪群A堀切Fしかありません。登山道は苔むして滑りやすいので下山中は要注意です。曲輪群の看板を過ぎると切岸のある曲輪Bが連続します。曲輪と曲輪を繋ぐ通路も残っています。この曲輪群を過ぎると土塁で囲まれた建造物の基礎が残った平坦地Cに到着します。第二次大戦中の防空監視哨跡です。虎口Dを通って防空監視哨を囲む土塁上の曲輪へ入ります。この土塁に大きな穴Eが開いていますが貯水用という伝承はありますが不明です。この曲輪の先の堀切と土橋は主郭からの帰りに見た方Fがよくわかります。堀切を過ぎると3段になった石垣を持った主郭Gです。ここから若狭湾Hが見えます。主郭西側には丹羽長秀時代の土塁と石垣、1615年創建の愛宕神社があります。ここには京極高次の正室初(常高院)の秘蔵仏画「絹本著色地獄十王像」が奉納されています。愛宕神社は火伏(火防)の神ということで毎年7月の第2土曜、山頂で大松明を燃やす火祭りが行われます。主郭の南西約10メートル下に山上御殿の遺構Jがあります。石積みや庭園跡も確認されたそうですが現状は雑木林です。ここは防御施設ではなく若狭湾と城下を見ながらの歌会や茶会のために設えられたと考えられ、代々公家や連歌師とのつながりが深く京風文化に触れ保護して来た武田氏の姿を垣間見ることが出来ます。主郭と山上御殿の間には石垣のものであろう石がごろごろKしています。ここを北へ抜けると武田氏館のあった空印寺背後の2本の稜線上に作られた曲輪群へ行けます。大手筋は城跡の北、八幡神社へ行く稜線上にあり、曲輪の跡もあります。これらの曲輪を横移動できる道があり「谷の横道」と呼ばれています。
ここで紹介した登り口から北西にある心光寺LMの裏に山へ入る石段があります。心光寺は1630年京極忠高夫人(初姫―徳川秀忠の次女)の位牌所として建立、最初は孝安寺という名でした。1641年忠高の次に小浜藩主となった酒井忠勝の夫人心光院の菩提寺となり心光寺に改められました。
【駐車場】小浜駅前駐車場 登山口に駐車スペースあり
【最寄りの駅】JR小浜線「小浜駅」
 
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【寄り道】武田氏館【MAP】
一色氏に代わり若狭守護となった武田信栄・信賢は西津湊の従来の守護所を利用していた。だが古来より若狭の中心都市である小浜から離れている不都合を考え、信賢は小浜湊に近い場所に居館を移した。これ以降、後瀬山の麓に武田氏の館が建てられる。
1440年に若狭武田家3代目となった信賢は風流武人として名を馳せた。東軍として参加した応仁の終結前の1471年6月52歳で死去。その嫡子はまだ7歳だったので信賢の弟国信が跡を継いだ。信賢同様、国信の和歌や連歌は高く評価され、公卿の飛鳥井雅親、連歌師宗祇と親しく、京都と小浜の自邸でよく歌会が催された。応仁の乱の時に領有した丹後の返還をめぐり一色氏と合戦。丹後の自軍へ援軍を送れず敗北、高浜の逸見宗見が自害した。1490年6月病没。玉花院に葬られた。玉花院は一時荒廃したが、常高院住職が1646年に再興、1740年に東光寺に改称。
国信の嫡男信親は若狭の資料では4代目とはなっていない。それは守護に就いた形跡がないからである。だが京では守護としての動きがみられるので4代目とする研究もある。信親は1485年(1514年説あり)死去、栖雲寺に葬られた。1548年住職潤甫周玉が没すると無住となり栖雲寺は衰退するが、浅野長政・京極高次の援助を受け持ち直す。1630年栖雲寺が廃され常高寺が創建される。栖雲寺が現在の地に再建されたのは1662年のことである。
玉花院と栖雲寺はそれぞれの居館跡と考えられている。玉花院は足利義満の4度の若狭遊覧でいずれも宿所に充てられ、1407年の時は室日野康子(北山院)が栖雲寺に泊った記録があり、領寺院共創建は古い。
信親が若くして亡くなったので弟の元信が跡を継ぐ。元信は和歌、猿楽、蹴鞠などあらゆる芸能文芸に長けていたので、会に参加するため公家や文化人が小浜を訪れた。この結果、小浜では文芸が盛んになった。そうした華やかな側面の一方で先代から続く丹後をめぐる一色氏との紛争は続き、国内の土一揆対策、幕府依頼の出兵などが国内に暗い影を落とした。1519年次男元光に守護職を譲って出家。2年後死去。墓は仏国寺にある。
元光は小浜常住を決め、後瀬山麓に守護館を建てた。心機一転のつもりであったであろうが、従来の丹後問題に加えて国内では重臣逸見氏と粟屋氏の反乱という問題が持ち上がり武田氏の求心力自体が怪しくなっていた。1538年(1539年説あり)、粟屋元隆の反乱を鎮めると信豊に家督を譲り、死までのわずか2年だったが文化人として名を馳せた。隠居所は発心寺となり墓所でもある。
武田氏が若狭から追われた後も武田氏館は守護所として後の統治者に利用されたが、京極高次が小浜城を築くとその役割を終えた。その跡地には高次の菩提寺泰雲寺が、また京極氏の国替えで藩主となった酒井忠勝により父の菩提寺建康寺が創建された。現在はその忠勝の菩提寺空印寺が建っている。

【探索のヒント】西津から館を後瀬山山麓に移した信賢の館は不明です。東光寺@栖雲寺Aとも2011年の大河ドラマ「江」の姉・初の菩提寺常高院C総門内Dにあります。栖雲寺はもとは常高院の場所にあったそうです。ちなみに初の墓Eは国道27号線を越えた後瀬山の麓にあります。常高院から遊歩道で行けます。東光寺には国信関連のものはありませんが、栖雲寺には信親の供養塔Bが建っています。この三つのお寺は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている小浜西組にあります。この街並みを見るためにも小浜公園駐車場の利用をお勧めします。
元信の墓Gがある仏国寺F未訪問です。
発心寺H
は後瀬山城の真東の麓にあり、城域だと考えられています。若狭武田氏唯一の木像元光の座像Iは室町時代末期のものです。元光の宝筐印塔J
は寺の裏にあります。発心寺の寒修行は冬の風物詩です。
武田氏館は
小浜小学校(現在更地)K空印寺Lを合わせた所にあり北側には堀がめぐらされていました。
●東光寺【MAP】 ●栖雲寺【MAP】  ●常高寺【MAP】
【駐車場】小浜公園駐車場 【最寄りの駅】JR小浜線「小浜駅」
【最寄りのバス停】
あいあいバスコミュニティ路線健康管理センター線「浅間三宅」
●仏国寺【MAP】
●発心寺【MAP】 :【駐車場】あり
【最寄りの駅】JR小浜線「小浜駅」
●空印寺【MAP】 :【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】JR小浜線「小浜駅」
【最寄りのバス停】
あいあいバスコミュニティ路線健康管理センター線「八幡神社」
 
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【寄り道】青井山城
幕府復権のため有力守護一色義貫(義範とも 若狭・三河・丹後・山城、尾張海東郡・知多郡守護)を排除したい足利6代将軍義教の命を受けた安芸守護武田信栄は1440年5月15日義貫の殺害に成功する。一色氏に代わり若狭守護となった信栄だったが在京が基本で守護代を派遣していた。若狭守護を継いだ弟武田信賢は牢人となった一色氏の被官の反乱に悩まされていた。そこで安芸から若狭へ移った武田被官に領地を与えて土着させ牢人の排除に乗り出した。だがそれは却って牢人の反発を招く結果となり、ついに1455年7月信賢は安芸を父信繁に託して自ら若狭へ出向かねばならなくなった。小浜へ着いた信賢は丹後へ逃れた一色牢人を警戒して勢峠監視のため青井城を築き、守護としては異例な20カ月もの間ここで過ごすこととなった。
【探索のヒント】「市民の森あおい」が城跡ですが、小浜市文化課に尋ねた結果、信賢時代の城の遺構は発見されておらず文献のみで確認されているとのことです。「市民の森あおい」へは勢峠@から行く道と小浜公園・高成寺側から行く道があります。案内板Aは小浜公園側を登り口としています。勢峠へは県道235号加斗袖ヶ崎鹿島線から行けるのですが2011年9月27日現在、5月の豪雨でこの道は通行止めになっています。そこで国道27号「青井交差点」から県道222号中井青井線へ入り、右側の住宅街を抜けると山へ入って行く道があります。龍谷寺の前を過ぎて「若狭霊場」前に通行止めのバリケードがありますが無視して坂を上り切通しになったところが勢峠@です。この先の丁字路に駐車スペースがあります。丁字路を左へ行くと県道235号線へ、右の道を行くと途中で一般車は入れなくなっていますが徒歩で山頂へ行けます。山頂と展望台BCは遊歩道で結ばれていて、途中、日本海側、後瀬山側の展望が開けますが私は行っていません。
●勢峠【MAP】:【駐車場】路上駐車
●市民の森あおい【MAP】:【駐車場】小浜公園駐車場
 
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E金ヶ崎城―福井県敦賀市金ヶ崎町【MAP】
9月8日敦賀郡司の朝倉景恒は小浜から来た義秋を出迎え、居城金ヶ崎城へ案内した。一乗谷へ移る11月22日まで金ヶ崎で義秋は上杉景虎に北条との争いを止め上洛に手を貸して欲しいと依頼したり、朝倉義景と加賀一向一揆の戦闘の中止を本願寺顕如に要請したり、公帖の発給をしたりして日々を過ごした。義秋は世話になった景恒のために官位を奏上、景恒は中務大輔に任じられている。景恒はその後、加賀一向一揆戦や武田元明越前救出戦の大将となるが、1570年の信長の第一次越前攻めでは手筒山城落城を受け織田軍の勧告に従い城を明け渡し永平寺に出家した。戦わずして降伏したので一族から非難を浴び、忸怩たる思いの中、同年9月28日死去。自害ともいわれる。
敦賀は中国大陸、朝鮮半島から京・畿内へ向かうには格好の港であった。また日本海側地方との海路陸路を問わず物流の拠点でもあったので、大和朝廷の時代より非常に発展していた。平安時代には海外からの客が滞在するための松原客館も建てられている。鎌倉時代には畿内の寺社の修繕費調達のため港の出入りする船に関税をかけたりもした。室町時代、守護は在京が決まりであったので守護代が現地を治めた。越前守護斯波氏の場合、守護代は執事の甲斐氏だった。だが甲斐氏は概ね在京だったので家臣で在地の豪族狩野氏や池田氏を小守護代・郡代として越前の統治に当たらせていた。小守護代は二人任命され、幕府・守護の命令を領地に伝達、領地内の裁判権、税金の徴収を仕事とした。だが敦賀郡代は徴税の代わりに敦賀郡内の所領安堵ができた。これは敦賀郡代の自立性の高さを示すものである。経済力と自立性を兼ねた敦賀を押さえたい甲斐氏は1406年一族の高岳を敦賀郡代とし以後世襲とした。記録によれば1465年甲斐備中守久衡の名を最後として甲斐氏の名は消えている。丁度のこの頃、坂井郡などの越前北部では朝倉孝景は勢力拡大を図り、在地支配権を甲斐氏から奪っていた。応仁の乱で西軍から東軍に寝返った孝景は将軍義政の支援を受け1471年から越前中央部の平定を開始、同時に敦賀郡の平定にも乗り出した。西国の兵糧を止め東軍への兵站線を確保したい義政は敦賀湊をどうしても押さえたかった。その為、朽木氏、若狭武田氏にも敦賀出陣を命じている。6月25日のことである。敦賀平定時期は不明だが、翌年11月16日付気比神社領大谷浦等の半済に関する奉書が敦賀郡司となった孝景の弟景冬によって出されている。朝倉時代の敦賀郡司の役割はそれまでと同じである。
景冬の跡を継いだ子の景豊だったが1503年宗家に謀反を起こして滅亡、朝倉教景(宗滴)が郡司となった。1531年孝景の弟教景の養子となった景紀が跡を継ぐ。のち景紀は若狭武田領の混乱を収拾すべく総大将として何度も若狭へ出陣することになる。1558年嫡男景垙が郡司職を譲られた。1564年加賀出兵においてあろうことか大将の座をめぐって景鏡と口論となり自害してしまう。景垙の子供が幼少だったため郡司職は弟の景恒が継いだ。
【探索のヒント】敦賀は観光地なので駐車場はあちこちにありますが金ヶ崎城へ行くのに便利なのは金前寺前にある観光駐車場です。ここから徒歩で金ヶ崎宮@を経て城跡へ向かいます。金崎宮を出たところに金ヶ崎城の碑Aがあります。金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した岬から手筒山へ繋がる稜線上Bに建てられました。月見御殿Cがあった場所が最高地で敦賀湾を見下ろせます。手筒山の方へ行くと城戸が三か所ありました。手筒山方向から一の城戸C二の城戸D三の城戸Eといいます。現在も薬研堀が残っています。西側が断崖絶壁なので東側の守備を固めていたということです。
金ヶ崎城は防衛拠点であって敦賀郡代が普段、執務に当たる所は別にあったと敦賀市立博物館で聞きました。ただそれがどこなのかは不明です。書院庭園が有名な西福寺(敦賀市原)も候補ですがあまりにも城から離れすぎているのが理由で評価はされていません。博物館が考えているのは法泉寺Fです。でもこれも推定ですので。
【駐車場】観光駐車場
【最寄りの駅】JR北陸本線・小浜線「敦賀駅」
【最寄りのバス停】
敦賀市コミュニティバス市街地循環線「金崎宮前」
●法泉寺【MAP】
【駐車場】なし
【最寄りの駅】JR北陸本線・小浜線「敦賀駅」
【最寄りのバス停】
敦賀市コミュニティバス
山・公文名線・野坂・ひばりヶ丘線・若狭線「本町1丁目」
 
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F一乗谷―福井県福井市城戸ノ内町・東新町
永禄10年3月朝倉家家臣で坂井郡の有力国人堀江景忠が敵であった加賀の一向宗と手を結んで義景に反旗を翻した。魚住景固・山崎吉家を総大将に堀江攻めを敢行、どうにか景忠を追放、国内が安定した11月21日敦賀から義秋が一乗谷に移って来た。義景は一乗谷の南にある安養寺の隣に義秋の住居(御所)を建てここへ迎えた。27日義景が御所を訪れ盛大な宴が開かれた。翌11年3月にも南陽寺で酒宴や「糸桜」を題材とした歌会が催されている。4月上旬京都から関白二条晴良が征夷大将軍の院宣を持ってやってくると義秋は安養寺に迎えた。これを機に義秋は元服、名を義昭と改めた。これを祝う酒宴が繰り広げられたがこれは5月も6月も行われた。しかし義昭が望むのは上洛する事だったのでそれに向け一向に腰を上げない義景に半ば失望していた。その間に義景の嫡男阿君(くまぎみ)が7歳で死去した。これは国を治めることができないほどの衝撃を義景に与えた。ここにきて義昭は義景を見限った。
但馬国朝倉から興った朝倉氏が斯波氏の被官として越前・黒丸城に移ったのが南北朝時代である。その後斯波氏の内紛に乗じて孝景が斯波氏に代わって越前を支配下に置いた。その拠点が一乗谷である。応仁の乱後、氏景−貞景−孝景−義景と五代100年の間、越前守護として国を守りつづけた。
義昭の住居である御所の南にあった安養寺は朝倉孝景が顕要和尚を開山として建立したとされる。天正元年の織田軍乱入により焼失したが西山光照寺・南陽寺とともに一乗谷では大規模な格式の高い寺院であった。
天台宗真盛派開祖の真盛上人が貞景に招かれここで説法を行い、感銘を受けた貞景が帰依した。これにより真盛派は朝倉氏の保護を受けるとともに多くの朝倉家家臣も帰依する事になった。
【探索のヒント】一乗谷@は福井市を代表する観光地なので車で来る分には何の不便もありません。通常ルートは北陸自動車道道福井ICから国道158号線を東へ10分ほど走った「天神交差点」を右折、「天神橋」を渡り左折、JR越美北(九頭竜)線の踏切を渡ってすぐ右折して一乗谷へ入ります。ここから南へ約2キロ史跡が点在しています。一乗谷復元町並Cの駐車場へ車を停め、ゆっくり散策しましょう。ここから有名な朝倉氏館跡A、南陽寺跡Bはすぐです。南陽寺は朝倉氏館の北東の高台にあり元は屋敷がありました。それを拡張して尼寺としました。仏殿跡や名勝庭園跡が残されています。復元町並みから約4百メートル南へ行くと右に一乗小学校のある交差点に出ます。ここを左折して少し行くと左に緑鮮やかな曲輪跡のような物があります。右が安養寺跡Dで左が御所跡Eです。路駐になるので少し戻った「一乗ふるさと交流館」の駐車場を利用しましょう。安養寺跡には遺構がかなり残っていますが御所跡は開発されてしまいほとんど残っていません。
朝倉氏館:【MAP】 南陽寺:【MAP】 復元町並み:【MAP】 安養寺跡・御所跡:【MAP】
【駐車場】一乗谷復元町並み駐車場 一乗ふるさと交流館駐車場

【最寄の駅】JR越美北線「一乗谷駅」
【最寄りのバス停】京福バス鹿俣・浄教寺行き「朝倉館前」「一乗小学校前」
 
G小谷城浅井氏館跡―滋賀県湖北町郡上【MAP】
義昭が奈良を脱出して苦節3年、ようやく上洛の目処がついた。7月18日前波景定と5百の兵に守られた義昭は一乗谷を出発した。敦賀で朝倉景恒の兵3百も加わり浅井領の国境を目指した。国境には信長の依頼を受けた浅井長政と近江の兵2千、不破光治、村井貞勝が待っていた。和田惟政が先頭になり義昭一行は余呉湖を右手に見て長政の清水谷屋敷へ向かった。ここで義昭は長政の饗応を受け初めて心安らかな時間を過ごせた。4日間逗留した義昭は7月22日浅井の兵に守られ小谷城を後にした。近江と美濃国境で織田軍が義昭を出迎え、信長との対面所である立政寺へ送り届けた。
【探索のヒント】小谷城の搦手といわれている清水谷の奥に御屋敷跡があります。清水谷は城下町を通る北国脇往還とも繋がって平時の生活はこの屋敷で営まれていたとも推測されます。
【駐車場】小谷城戦国歴史館駐車場 【最寄りのバス停】湖国バス「児童館前」 
 
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H立政寺―岐阜市西荘
7月25日義昭は美濃から迎えにきた和田惟政・不和光治・村井貞勝・嶋田秀順らと越前を発った。信長が近江と美濃の国境付近まで迎えに着たとの話もある。26日の対面の時には銭や太刀・鎧・武具・馬などが山のように積まれ、義昭に付き従った家来たちも盛大に歓迎された。
立政寺は正平9年(1354)に智通上人により創建された浄土宗の寺で美濃、尾張、伊勢、近江、信濃地方において、浄土宗の中心として位置づけられた名刹だったが寺院の建物も、濃尾大地震で全壊した。境内には開祖・智通上人と蛙の伝説で有名な「蛙なかずの池」がある。
ところで義昭と信長との会見をセッティングした人物として明智光秀が必ず出てくる。斎藤義竜との戦いに敗れ母方の若狭武田氏を頼って出身地美濃を後にしたといわれる。家族を越前長崎の称念寺に預け光秀は見識を広げるため単身諸国へ旅に出る。6年後帰国、朝倉家家臣で坂井郡国人青蓮華景基に召抱えられる。加賀一向宗との戦いにおける見事な戦術と鉄砲の腕前が義景の耳に入った。義景は光秀に安養寺で鉄砲の実演を求めた。光秀は義景の期待に応え百発百中の腕前を披露した。これにより光秀は義景に召抱えられるようになり、一乗谷大手筋に居を構えた
(福井県福井市東大味町)。そして義昭と出会い、信長の正室帰蝶との姻戚関係から義昭上洛の仲立を買って出たと言う説もある。一方、義景があまりに光秀を贔屓にするため、譜代の家臣がそれをねたんで義景に光秀のある事ない事を讒言したことから義景は光秀を遠ざけるようになった。これに嫌気が指した光秀は信長に仕官したとする話もある。
【探索のヒント】立政寺@は車でJR「西岐阜」の高架を越えてから探すのに難儀しました。高架の横の側道に車を停めて歩き回って見つけました。門と碑だけしかないので近所の人に聞いてやっと分かりました。車で入って来るのは邪魔なので徒歩が正解です。
光秀の住居跡には小さな光秀木像を安置した祠のある明智神社があります。この土地を所有する2件の農家によってなんと4百年も守られているそうです。鯖江方面からは県道208徳光鯖江線の「榎坂トンネル」を出て少し行った丁字路を右折、道なりに進んで真っ直ぐ行くと県道238号一乗谷朝倉氏遺跡東大味線に入ります。この道は一乗谷遺跡へ通じています。そのまま走っていくと左手に「明智神社→」の看板が現れ、それに従って右折します。用水路(地元の人は川と言ってました)に添って山の方へ向かうとすぐ左に神社があります。見学だけなら神社のすぐそばにシャッターのある家の前に車を停めさせてもらってください。東大味歴史文化資料館なる建物が同じ敷地内にあり光秀関連の資料があります。
立政寺:【駐車場】なし 【最寄の駅】JR 「西岐阜」【MAP】
明智神社:【駐車場】なし 【最寄りのバス停】京福バス「東大味」 【MAP】 
 
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I成菩提院―滋賀県山東町【MAP】
浅井家の重臣遠藤直経は滞在中の信長を殺害することを長政に提案した。信長に恨みがあったのではなく、国主が代わって国内がまだ安定していない美濃を手に入れる絶好の機会と考えたのだろう。しかし、律儀な長政にその提案は一蹴されてしまった。六角氏を追放したあと9月21日に義昭を迎えるために再度投宿。上洛戦が成功したあと美濃へ帰る途中の10月27日にも泊まっている。その後150石の寺領を寄進した。
成菩提院は最澄が815年に柏原小野に一時留まって小さな建物を設けたのが最初といわれる。鎌倉時代には天台宗の談議所(学問所)として京極氏の手厚い保護もあって繁栄した。1326年越前の平泉寺の衆徒が乱入して寺を焼いたため衰退した。しかし足利義満の願いにより比叡山西塔の名僧貞舜法印(じょうしゅんほういん)が再興、初代住職となった。歴代住職の中には徳川家康の懐刀といわれた天海大僧正がいる。また武将との関わりも深く織田信長・浅井長政・豊臣秀吉などが宿泊しており信長・家康は寺領の寄付もした。天正6年(1578)兵火で諸堂を焼失した。
【探索のヒント】国道21号線「柏原」の交差点を北に向かいJRの高架を過ぎると「成菩提院」の看板が出ています。門のそばに「下馬」の碑Aがあり、武将との関わり合いを感じました。私が行ったのは7月ですが秋はきっと紅葉がきれいだと思います。
【駐車場】成菩提院横に数台分の駐車場 【最寄の駅】JR 「柏原」 
 
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J佐和山城―滋賀県彦根市古沢町【MAP】
佐和山城に入った信長は義昭方代表和田惟政に進藤山城守・不破河内守・二宮采女正をつけて箕作城に向かわせた。義昭の上洛に協力してくれたら所司代の役職を約束するとの申し出を三好氏と通じていた六角承禎は拒否した。祖父の代から対立している浅井氏に協力するのも気に入らなかったのかもしれない。これにより六角征伐が決定した。
佐和山はサホ(佐保・棹)山と呼ばれ鎌倉時代はじめに佐々木定綱の六男六朗時綱が山麓に館を構えたのが始まりとされる。15世紀中頃やがて佐々木氏は京極と六角に分かれさらに京極の家臣だった浅井氏を交えた3者の間での争いがはじまると境目にある佐和山は重要拠点になり城塞が築かた。
【探索のヒント】国道8号線「古沢」の交差点を彦根城方面に行くとすぐに「船町東」という交差点があります。そこを右折して細い道を直進します。右手に「佐和山城跡」「龍潭寺」などの標識のある交差点を左折、踏切を渡ってすぐに左折します。直進すると佐和山城への登口である「龍潭寺」にたどり着きます。車でなければ反対側にある南登山口もあります。足場の悪い登山道なので気をつけましょう。私は下山中捻挫してしまいました。本丸以外は整備されているとはいえません。本丸からは観音寺城も一望Bできます。大手門@は佐和山トンネルの鳥居本町側を出てしばらく走ると左に入る道があります。田んぼの真ん中の道なのですぐ分かります。
【駐車場】龍潭寺横に駐車場 【最寄の駅】JR「米原」 
 
K平尾御坊―不破郡垂井町平尾【MAP】
中山道「垂井」の北東に位置する平尾。ここには平尾御坊がある。蓮如の孫實慧法眼の二男證榮僧都が開基の眞徳寺が信長に焼討ちにあった伊勢長島の願證寺を継承した。
【探策のヒント】県道216号線を走っていると道沿いに「願證寺」の看板が出ています。旧中仙道「垂井宿」の東に「平尾御坊道」の碑を見つけることができます。
【駐車場】県道沿いに駐車場 【最寄の駅】JR東海道本線「垂井駅」 

 

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