@木津城【MAP】
【探索のヒント】
 
 
A寺本城―京都市伏見区深草西出町【MAP】
深草の四土豪(赤塚、寺内、藪、寺本)の一つ寺本氏の城である。寺本氏の祖先は藤原鎌足で藤原忠元の時、父光忠の故郷尾張寺本のちなんで寺本と改姓した。信長が上洛すると寺本直勝(じかしょう)は信長に属すが永禄12年正月の三好三人衆による本圀寺襲撃のとき三好勢と戦って六条河原で戦死した。そのため次男政久は母と母の実家浅野長政の厄介になることになった。また直勝の弟直寿も長政を頼っている。慶長の時代になって政久は浅野姓を名乗って越後浅野の祖となった。寺本氏は大雲寺の住職であり直勝寺は戦死した直勝を祀ったものである。
【探索のヒント】城跡を示すものは何もありません。よくあるカクカク曲がった道や狭い道が城があったことをうかがわせます。周辺は住宅街で車を停めるのも大変ですが聖母女学院のグラウンドの横に少しなら停められそうなスペースがあったのでそこの停めました。
【駐車場】なし
【最寄の駅】京阪本線「藤森駅」 【最寄のバス停】京都市バス「聖母女学院前」
 
B清水寺―京都市東山区清水1-294【MAP】
音羽山清水寺は宝亀9年(778)開創。奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ音羽山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが当寺のおこりである。
音羽の滝は清水滾々と数千万年来、音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、わが国十大名水の筆頭にあげられる。ここより「清水寺」の名がおこった。
【探索のヒント】観光地なので駐車場はあります。私は清水寺から離れた所に停めましたが散策しながら寺までいけて結構楽しかったです。
【駐車場】Times
【最寄の駅】京阪本線「京阪五条」 【最寄のバス停】京都市バス「清水道」
 
C東寺―京都市南区九条町【MAP】
東寺(正式名称は教王護国寺)は平安京遷都の際に正面入り口の羅生門を挟んで796年に東西に建立された寺院の一つで、またの名前を左大寺ともいう。 西寺(右大寺)も建立されていたと言われるが現在は東寺しか現存しない。当初の目的は左京、更には東国の鎮護を目的としたが、823年に嵯峨天皇が空海に東寺を勅使したことから真言密教の根本道場の意味合いを持つようになった。 兵火等で創建時の建物は失われており、現在の堂宇は奈良時代の伝統的な伽藍配置をふまえて再建された。
【探索のヒント】駐車場が寺の西にあります。一回600円です。さっさと見て回るとすぐに回れます。東福寺と比べるとその規模にかなりの差があるので本当に織田軍が駐留したのかと思います。
【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】近鉄京都線「東寺」
【最寄のバス停】京都市バス「東寺南門前」「九条大宮」「東寺東門前」
 
@A
B
D勝竜寺城―長岡京市勝竜寺【MAP】
28日(26日とも言われる)柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚らによって包囲された。三好三人衆の石成友通が5百の兵と立て籠もる。上洛軍に向かって討って出るがたちまち五十名が討ち取られてしまう。岩成は29日夕刻降伏を申し出て城を退去した。
勝竜寺城は南北朝時代の1339年細川頼春が南朝方に備えて古墳を改造して築いた。足利尊氏も一時本拠とした。その後も応仁の乱では守護畠山義就の拠点ともなった。この城を与えられた細川藤孝によって元亀2年(1571)二重の堀を持つ城に大改修された。城の中心部には本丸(写真左)と沼田丸(写真中)があり北には土塁や堀を設け南は勝竜寺(写真右)を中心にした城下のような集落がある。
【探索のヒント】はじめてきた時は電車で来ましたが今回は車でした。あいにく休園日だったので堀のそばに路駐しましたが沼田丸の横に駐車場がありました。城の南側を散策しましたがおなじみの細い道と曲がりくねった道がありました。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】JR東海道本線「長岡京駅」 【最寄りのバス停】阪急バス「勝竜寺城公園前」
 
@A
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E東福寺―京都市東山区本町【MAP】
勝竜寺城の戦いで討ち取られた首は東福寺に届けられた。信長は首実験を行いそのあと勝竜寺城へ向かった。
「信長公記」には入京を果たした信長は本陣を東福寺に置いたとしているが摂津に攻め込むにしては不便な場所に陣を張ったことになる。京都市考古資料館の学芸員の方に聞いてみると東福寺は軍勢を受け入れるほどの広さはなく考えられないとのこと。
1236年東福寺は法性寺の敷地に摂政九条道家が造営した。奈良の東大寺と興福寺のような立派な寺院をなぞらえてこの名がつけられた。当初真言宗・天台宗・禅宗の堂塔を備えたが相次ぐ火災で大半が焼失して1347年再興の時完全な禅宗寺院になった。
【探索のヒント】無料駐車所があります。国道から入っていくのに難儀しましたがそれ以外はスイスイいけました。東寺と比べるとかなり広大な敷地なのでこちらのほうが軍勢を入れるのに向いているのではと思いました。その頃は広くなかったのでしょうか。開山堂は一度行ったら良いでしょう。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】JR奈良線 京阪本線「東福寺駅」 【最寄りのバス停】京都市バス202,207,208系統「東福寺」  
 
F寂照院―長岡京市奥海印寺明神前【MAP】
清水寺に陣取っていた義昭は東寺を経て寂照院へ移った。
かつては華厳宗、真言宗に属したが、現在は独立の寺院で無宗派となっている。
弘仁10年(819)権僧都道雄が勅許を得て伽藍を造営し、観音像を安置して海印寺と号したのが起こり。創建当時は寺域もひろく、子院十院を数える大寺であったが、応仁の乱に惜しくも一山焼亡し海印寺の塔頭であった寂照院のみが残った。孟宗竹発祥の地。
【探索のヒント】阪急電車「長岡天神」駅の北側を東西に走る府道79号線を西に向かいます。「八条ヶ池」を通り越して三叉路をそのまま直進、二つ目の大きいな交差点、バス停で言うと「明神前」を北へ向かいます。竹薮が見えたらその右側にあります。私が行った時は門前にトラックが止まっていたので駐車スペースはあると思います。ちなみに私は竹薮の前に車を停めました。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】阪急京都線「長岡天神駅」 【最寄りのバス停】阪急バス「明神前」   
 
G山崎―乙訓郡大山崎町【MAP】
天王山と淀川の間の町が大山崎町である。平安時代には山城の国の国府がおかれた。大山崎町を走る府道西京高槻線はかつての西国街道である。 この西国街道を大山崎の油神人たちは、都にいって油を売り、西国や東海地方など広い範囲で原料の荏胡麻を買い付けるなど行き来していた。 慶長十九(一六一四)年の大坂冬の陣では、たくさんの牢人(浪人)が大坂へ向かって街道を下り、江戸時代には、 西国の大名たちが参勤交代のために街道を江戸へと上がっていった。
写真右は離宮八幡宮。最初石清水八幡宮という名前だったが嵯峨天皇の離宮に創建されたのでこう呼ばれる。貞観(859〜)年間、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し、「荏胡麻油」の製油を始めた(写真左本邦製油発祥の地の碑)。当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていたが次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜って山崎に「油座」の制度が布かれた。諸国の油商人は本宮から許状を授与されるようになり離宮八幡宮は油の販売権を独占して栄えていった。
平安、鎌倉、室町時代のわが国経済界で貢献し、一時は「西の日光」と呼ばれるほどの広壮な社殿を構え栄華を極めた離宮八幡宮だったが、織田信長の「楽市楽座」の政策で打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになるとこれに市場を奪われ徐々に衰退していった。
【探索のヒント】周辺に駐車場がないので少しうろうろしましたが境内に小さいながらも駐車スペースがありました。山崎の駅も近いので電車のほうが無難かもしれません。
【駐車場】境内に数台 【最寄りの駅】JR東海道本線「山崎駅」

 

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