@普門寺城―高槻市富田【MAP】
三好三人衆と松永久秀によって擁立されて14代将軍になった義栄だったが信長が上洛するのが確実となるとここへ身を寄せていたが、9月腫れ物が悪化して死亡した。
創建は古く南北朝末期の明徳元年(1390)にさかのぼる。境内に細川晴元の墓とされる宝篋印塔がある。江戸時代初期に九世龍渓が、隠元を迎え、方丈移築や仏殿、石庭等を整え、後水尾上皇はじめ各地の僧俗が集まり興隆。最盛期には約3万・(本照寺や旧富田小学校等敷地を含む)に及んだ。方丈(本堂)は重要文化財、「枯山水の庭園」は国名勝に指定されている。
【探索のヒント】富田駅から行くと富田小学校を通過して最初の信号を左へ行きます。少し行くと左手奥にお寺らしきものが見えます。お寺の中を見るには事前の連絡が必要です。こちらを参考にしてください。
【駐車場】普門寺にあり 【最寄り駅】阪急電車「富田駅」 JR「摂津富田駅」
 
@A
B
A天神馬場と上宮天満宮―高槻市天神町
信長が本陣を張った天神馬場はJR高槻駅北口から石鳥居までの参道@で当時は松並木が続いていた。上宮天満宮Aは古墳があった天神山にある。山崎の戦のとき秀吉が本陣Bを置いたことで有名。上宮天満宮は大宰府・京都北野についで3番目に作られた。菅原氏の先祖野見宿弥ゆかりの地ということでこの場所が選ばれた。ちなみに天満宮の名に関して「織田信長、寺社を破却(はきゃく)の時、天満宮と改むるものや」という文献があり信長時代にこの名前になった。
【探索のヒント】JR「高槻駅」北口から真っ直ぐ北へ向かうと上宮天満宮があります。境内は木々で覆われてい周辺は見えませんが本陣を構えるには周囲を見渡せる高台にあるので最適な場所だと思いました。
【駐車場】駅周辺にあり 【最寄の駅】JR京都線「高槻」 【MAP】
 

B芥川山城―高槻市原【MAP】
芥川山城は三好長慶が摂津支配の拠点とした城。細川昭元、三好長逸、三好政康が守っていたが勝竜寺城が落とされた29日夜同じく落城した。その後信長と義昭が入城、しばらくの間三好掃討戦の本陣をおいた。10月4日三好勢と袂を分けた松永久秀が茶入れ「つくもかみ」を持ってやってきて信長に恭順する意思を表した。芥川山城はこの後和田惟政に任された。
【探索のヒント】三好山が目的地です。車で行くと国道171号線「今城町」交差点を北上します。芥川沿いにさらに北上します。突き当たりを左へ行くと「摂津峡公園」なので右へ行きます。さてここからむちゃくちゃややこしいです。「妙力寺」が左にある道を探してください。そして「黄金の里」を目指してさらに山へ入っていきます。次の目標は「老人ホーム」です。老人ホームを通り越して狭い舗装している山道を進みます。やがて道が急にU字に曲がって下る道に出ます。その辺りで車を停めました。いつも停めれるとは思いません。そこから車の進行方向と逆に山へ入っている道があります。そこが上り口です。緩やかな坂を上っていくと堀切に最初の碑があります。さらに進むと竹林になっていて石垣や井戸があり、やがて頂上へ行きます。見ごたえのある遺構です。この山は個人の山なので物は持って帰らないようにしましょう。
ところで私は家内といったのですが正直偶然に登口にたどり着いたのです。だからそのルートを思い出しながら道順を書きましたので不正確かもしれません。わからなかったらその辺に歩いている人に聞いてください。
【駐車場】なし
 
C越水城―西宮市桜谷町【MAP】
瓦林正頼が1516年に築城。かなり大規模な城で西宮は城下町の風情があった。正頼は応仁の乱で死亡、その後三好氏が入った。天文2(1533)年瓦林氏と一向一揆が反乱、城を奪い返すが畿内に覇を唱えていた三好長慶に再び奪われ彼の居城となる。長慶死去後篠原長房が城主となる。永禄9(1566)年松永久秀が篭る滝山城が三好三人衆に攻撃されたとき久秀に取り立てられた瓦林三河守が久秀救援のため越水城を攻め取るが四日後奪い返えされる。9月14代将軍となる義栄(当時義親)が入城する。そして今回の信長上洛で屈服、城は廃城となった。(西宮市教育委員会の説明文より)
【探索のヒント】越水城の碑は大社小学校の正門前にあります。周辺は住宅地なので車は非常に停めにくいです。更に幼稚園バスまで通るのでゆっくりこの辺を回るのなら公園周辺に車を停めてはどうでしょうか。でも駐車場に停めたほうが良いと思います。城跡は古墳を利用していますがその名残はありません。ただ高台にあるのがそれらしいでしょうか。
【駐車場】なし 【最寄の駅】阪急電車「夙川」 【最寄のバス停】阪神バス「大社校前」
 
@A
D滝山城―兵庫県神戸市中央区神戸港地方【MAP】
三好長慶の片腕となった松永久秀は弟長頼とともに丹波から山城の攻略にあたった。その拠点が久秀最初の持ち城、滝山城である。風流人であった久秀は1556年長慶はじめ摂津の国人たちを招いて連歌会を催した。長らく久秀の居城だった滝山城だったが三好三人衆と久秀が対立した結果、1566年三人衆方の安宅信康の攻撃を受けた。滝山城は尾根に設けられた30ほどの曲輪からできていた山城のため容易には落ちなかった。ただ三人衆の主目的はこの城を落とすことではなかったので城が落ちるまでの半年間、三人衆と松永軍は堺・京都周辺、西宮越水城などで攻防を繰り返した。さらに滝山城攻撃に合わせるかのように丹波八上城が波多野氏の攻撃を受けた。松永軍は敗退を続け滝山城を残すのみとなった。この状況に久秀は城を捨て大和へ引き上げていった。その後篠原長房が入城するが信長上洛で逃亡、荒木村重に預けられると花隈城の付城として家臣池田泰長が守った。村重謀反で織田軍の攻撃を受け花隈城とともに落城、花隈城と同じく城は解体され兵庫城築城に利用された。
【探索のヒント】滝山城は山陽新幹線「新神戸」駅の北にある城山にあります。上るルートは新神戸駅北口から布引の滝を経由するハイキングコースと異人館街で有名な北野町から新神戸駅へ続く北野道の途中から向かうコースがあります。今回私は北野道から上っていきましたが山道を歩くということで北野町付近を観光する小綺麗な人たちとは明らかに違う様相でした。うろこの家の裏手にあたる北野道を進むと城山の案内板があり、そこから山へ入って行きます。何箇所か展望の利くところに休憩所があり神戸市を一望@できます。表示に従って進み二つ目のピークに滝山城の碑Aがあります。北野町のコインパーキングからちょうど1時間で到着です。神戸駅北口からのほうが見所がたくさんありそうです。こちらを参考にしてください。
【駐車場】Times他多数 【最寄の駅】山陽新幹線「新神戸」地下鉄「新神戸」 【最寄のバス停】神戸市営バス「新神戸駅前」
 
@A
B
E池田城―池田市城山町【MAP】
摂津の国人だった池田氏は三好長慶が台頭してくるとその配下に入って勢力を伸ばした。信長が上洛した当時の当主池田勝正は三好三人衆の面目にかけて信長に抵抗した。10月2日織田軍が城を囲み攻撃を開始した。城の抵抗は激しく織田方の梶川平左衛門が討死、魚住隼人が負傷した。城を見下ろせる北の山に陣取った信長はこの事態に城下を焼き払うよう命じ長期戦に出ようとした。城下を焼き払われた勝正はこれ以上の抵抗は無駄と降伏を申し出た。信長は人質を出すことで勝正の降伏を受け入れ今までどおりの支配権を認め、摂津の三守護の一人とした。
池田城は摂津でも指折りの名城だった。
主郭部分@には庭園Bもあった。五月山南麓の尾根を利用した縄張りで西は急峻な崖、東と南は堀を幾重にも備え北は杉ヶ川が堀の役割をしていた。池田城は過去にも落城しているが今回の落城後大幅な改修がなされ巨大化した。また虎口Aが二度曲げられたのはこの戦いの後である。
【探索のヒント】車は池田城そばの体育館の駐車場に停めると良いでしょう。初めて来たときは城より下のコインパーキングに車を停めたのであがるのに大変でした。今は城へ通じる道もいくつかあるので城下を見ながら城へ行くのも良いでしょう。城跡公園は火曜日が閉園日です。隣に歴史資料館もあるので寄ってください。
【駐車場】体育館の駐車場を利用 【最寄の駅】阪急宝塚線「池田」 【最寄のバス停】阪急バス「五月山公園・大広寺」
 
F伊丹城―伊丹市殿町【MAP】
伊丹親興(正親、忠親ともいわれる)の城。はじめ反信長だったが信長に降ると摂津三守護として池田勝正、和田惟政と同列に扱われる。永禄12年の正月義昭が本國寺で三好勢に襲われたとき伊丹親興は救援に駆けつけた。義昭と信長が対立すると義昭につき、天正2年荒木村重に攻められ城は村重のものとなる。
【探索のヒント】伊丹城址を見るだけなら車はダイヤモンドテラス<ジャスコ>に停めることをお勧めします。そのほかにも市営駐車場はあちこちにあるので車で行っても不便はないと思います。
【駐車場】市営駐車場 【最寄の駅】JR宝塚線「伊丹」【最寄のバス停】阪急バス「JR伊丹」
 
G五月山
 
@A
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H高槻城―高槻市城内町【MAP】
高槻城は平安時代に作られた古い城である。南北朝時代は入江氏が支配する。三好勢の城として信長に抵抗するも落城、和田惟政が信長に芥川山城と共に任される。その後中川清秀に惟政が討たれる(白井河原の戦い)と高山飛騨守・右近父子が城主となる。切支丹であった右近は城内に天主教会堂を作りキリスト教の布教に努めた。その後豊臣氏・徳川氏の直轄領となり、大阪の陣以降は徳川の譜代大名が城主となった。1649年に永井直清が城主となってから明治時代まで13代、永井氏が治めた
【探索のヒント】阪急高槻駅から南へ10分で高槻城跡へ到着します。国道171号線付近から南へ900メートル東西600メートルが城域です。城跡野球場が二の丸、槻の木高校が本丸でした。歴史民族資料館のある城跡公園Bは三の丸になり、その東側に東大手門Cがありました。ここへ来るのは2度目ですが前はこんなに綺麗に整備されていませんでした。高槻城の碑@も何か所かにあり右近像Aもここ以外に「カトリック高槻教会」にもあります。高槻市挙げて城下町の維持に頑張っているので高槻城の遺構は城域にある寺院に移築されています。公園周辺に駐車する所は無いので「しろあと歴史館」見学を兼ねてここへ駐車する手はあります。駅周辺には有料駐車場があるので散策をかねて駅から歩いてもいいでしょう。デジタルで再現された高槻城はこちらで見ることができます。
【駐車場】しろあと歴史館に9台分 【最寄の駅】阪急・JR京都線「高槻」 【最寄のバス停】高槻市営バス「市役所前」
 
@A
H茨木城―茨木市片桐町(茨木小学校・茨木神社)【MAP】
高槻城と共に三好勢の城。楠木正成が築城との説もある古い城。豪族の茨木氏の居城。今回の上洛戦で落城して信長に服従するが元亀2年に反抗。これに対し荒木村重、中川清秀が討伐に当たる(白井河原の戦い)。城は中川清秀に与えられ賤ヶ岳の戦いで清秀が戦死すると片桐且元が城主となった。
茨城小学校の北に本丸があった。小学校には復元された
櫓門@がありその周辺は細い道が入り組んでいて城の存在を感じさせます。茨城神社には搦手門Aがあります。
【探索のヒント】市営駐車場が午前6時から開いているのでゆっくりと散策できます。
【駐車場】市営駐車場 【最寄の駅】JR京都線「茨木」阪急京都線「茨木市」 【最寄のバス停】阪急バス「茨木市役所前」
 
@A
BC
H津田城―枚方市津田山手【MAP】
国見山の東にある三之宮神社B尊延寺Cを中心に発展してきた津田は京と摂津・河内を結ぶ軍事拠点であった。三之宮神社は平安時代からその周辺の実力者が願主となって度々再興された。平安末期から室町半ばまで国見山の北の郷士中原氏が願主だったが1490年楠正成の末裔で橘姓から津田姓に改めた津田正信Aが願主に名乗りをあげ以降、津田氏没落まで願主となった。正信は国見山@に城を構えて津田村・尊延寺村・芝村・穂谷村を支配した。正信の娘織江は蓮如の子供でで枚方敬応寺を開いた蓮淳に嫁いでいる。3代目津田正明のとき河内守護三好長慶から安堵を受け広大な領地を有するようになった。4代正時の時後ろ盾になっていた長慶が死んで穂谷の郷士の反乱を招いた。天正3年の織田軍の高屋城攻めのとき津田城は洞ヶ峠側から攻められ城は焼け落ちてしまった。正時は浪人するが秀吉に許されて津田に戻されるが天正10年山崎の戦いにはわずか16騎を率いて光秀軍に参陣した。それでも北政所のとりなしで秀吉の馬廻り奉行に取り立てられ津田2百石を与えられた。しかしその後の消息が不明で小田原攻めの時、戦死したとか、八幡市あたりに離散したとか言われる。
【探索のヒント】このあたりは宅地開発が進んで山が切り開かれ、古い地図だと迷うかもしれません。私が行った04年時は配水所の付近に路駐できました。山へ向かって道があるのでこれを進んで行くだけです。犬を散歩させている人に何人も会うぐらいなので大変な山歩きにはなりません。昭和31年の調査で山頂付近に土塁と明時代の輸入磁器や瓦器が発掘、地下30センチところには織田軍によって焼き討ちされたことを裏付けるように焼土層が見つかりました。
【駐車場】なし 【最寄の駅】JR片町線「津田」
 
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H飯盛山城―大東市北条【MAP】
河内の代表的な山城。飯盛山城は三好氏が畿内を支配した時代を象徴する存在だったが信長の上洛によって畿内における力関係が変化したため、その象徴たる城は役目を終えた。
最もよく知られているのは楠正成と高師直の「四條畷合戦」の舞台である。師直軍の城として利用された。時代が下って室町末期には守護の畠山氏の居城となり、木沢長政、安見直政が守った。1560年三好長慶は畠山氏から奪った飯盛山城を拠点に畿内に覇をとなえた。長慶の死後、跡を継いだ義継は信長に接近河内を安堵され、居城を若江城に移したことで飯盛城の役目は終わり、廃城となった。
【探索のヒント】飯盛城へ登るには野崎観音コース・四條畷神社コース・滝谷コース・北条神社コース・龍間コースの5ルートがあります。私が採ったのは滝谷コースで登山口ままで車でいけて路駐できます。また途中に滝谷楠水の場があって水の補給もできます。近隣の人が水だけを汲みに来るぐらいに楽なコースです。スタートから20分ほどで飯盛山城の馬場である「楠公寺」Dへ向かう舗装道路へ出ます。左が楠公寺で右へ進んで行くと左がNHK中継所へ向かう道と階段を登って山頂へ行く道、四條畷方面へ行く道と分かれます。NHK中継所は本丸千畳敷郭で「戦払の碑」Cがあります。山頂へ向かうと本丸@のあった展望台です。その左の高台には楠正成像Aがあります。四條畷方面に向かうと石垣Bが多数見られます。曲輪らしきところは今桜の植林がなされています。
登山口まで行くには国道163号線の「楠公里」の交差点を山へ登っていきます。「実蔵寺霊園」[なわて更正院」を過ぎると車を置けるスペースのある道に出ます。

【駐車場】四条畷駅・野崎駅前にTimes 【最寄の駅】JR片町線「四条畷駅」「野崎駅」
 
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H若江城―東大阪市若江北町
戦国時代の畿内の覇者というべき三好長慶だったが弟十河一存、三好義賢、嫡男三好義興と肉親で長慶を政治・軍事面で支えた面々を次々と失いすっかり弱ってしまった。さらに重臣松永久秀の讒言により残った弟安宅冬康も殺害してしまうなど正常な判断すら出来なくなり、この世を去った。長慶の跡を継いだ義継には三好家の実権を握った久秀や奉行衆の三好三人衆を抑える力も無く、三好宗家の実権は彼らに握られてしまった。足利義輝殺害後新将軍義栄を擁立するなど畿内で勢いを増していった三人衆と久秀だったが1565年丹波での赤井氏・波多野氏との戦いで久秀の弟長頼が戦死したのを境に両者は対立するようになる。その3ヵ月後三人衆は飯盛山城を襲い義継を拉致、反久秀の旗頭にした。これに久秀によって大和を放逐された筒井氏が加わった。久秀は河内の旧勢力畠山氏・遊佐氏・安見氏を誘いこれに対抗したが大敗を喫して行方をくらませた。三人衆が畿内を手に入れたように見えたが義継が長慶の叔父三好康長と久秀のもとへ出奔した。阿波から援軍に来た篠原長房が新将軍義栄を敬うのに義継を粗略に扱ったことに腹を立ててのことだった。ここで再び三人衆と久秀の戦いが奈良で繰り広げられ、東大寺大仏殿が焼け落ちたのである。その一年後信長が上洛してきた。久秀はいち早く信長に誼を通じたことで上洛軍を味方につけ三好勢の駆逐に成功した。信長は畿内での統治は旧勢力の協力が不可欠と判断、若江城に義継を入れて北河内の守護に任じた。
旧大和川、淀川の土砂の堆積で形成された河内平野のほぼ中央に位置する若江に人が住みだしたのは弥生時代からである。やがて集落が形成されて発展、河内国の中心と位置付けられた。若江城が歴史的にクローズアップされるのは応仁の乱の一原因にもなった河内守護畠山持国の跡目争いの舞台としてである。実子義就と養子政長が若江城を巡って攻防を繰り返す。
若江城は旧大和川とその支流から成る湿地帯に囲まれた台地上に築かれた平城であった。
本丸Aを囲んで南に二の曲輪、北東に三の曲輪、その東に四の曲輪、二の曲輪の西から南を囲むように五の曲輪があった。それぞれの曲輪に街道が走っているので防御設備として三の曲輪の入り口には薬師寺・信行寺B、四の曲輪への入り口には長寿寺C、大坂から五の曲輪への入り口には光源寺D、高野街道から五の曲輪の入り口には良法寺Eがあったと推測されている。本丸は幅10メートルから16メートル深さ2メートル以上の堀で囲まれていた。
【探索のヒント】ここへ来たのは三度目でいつも車を停める所で困りました。今回は07年正月で車の量も少なかったので公民館の西の待避所に路駐しました。小学校の横に駐車場があるのですが「学校関係者お断り」と看板があったのでどこの駐車場か分からず断念しました。若江城の立派な碑と祠@は公民館と府動24号大阪東大阪線の反対側にありますが本丸は公民館の所にありました。防御施設として機能したとされる寺の中にはすでになくなっているものもあります。
【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄奈良線「若江岩田」 【最寄のバス停】近鉄バス「若江」
碑と祠:
【MAP】 本丸:【MAP】 薬師寺・信行寺:【MAP】 長寿寺:【MAP】 光源寺:【MAP】 良法寺:【MAP】
 
H高屋城―羽曳野市古市【MAP】
三好長慶が畿内で勢力を拡大させた永禄初期、長慶の弟義賢を城の守りにつかせた。三好三人衆は長慶の死後、後を継いだ義継を飯盛山城から高屋城へ移して、対立していた松永久秀討伐の旗頭とした。しかし義継は三人衆に冷遇されたので久秀のもとへ走る。そのあと三好康長が城主になる。康長は長慶の叔父で長慶と義賢兄弟の調整役として三好家では重きを成した。信長の上洛に康長は一時本国阿波へ引き上げたあと河内守護として畠山高政が高屋城に入る。永禄12年康長は三人衆とともに本國寺に足利義昭を攻めたり、元亀元年野田福島城に篭城したり、三人衆とは違った立場で三好宗家として康長は信長に反抗しつづけた。康長はこの元亀元年久秀、義継と和睦して彼らと共同歩調をとるが、翌年畠山高政のあと高屋城主になった昭高と彼を擁立した遊佐信教が対立すると久秀とともに遊佐氏に味方して高屋城を攻めた。これを鎮圧するため信長は軍を河内へ派遣している。
足利尊氏を助け室町幕府成立に尽力したことで畠山氏は能登・越中・河内・紀伊を領する守護大名となった。2代将軍義詮、3代義満に仕えた基国は斯波氏・細川氏とともに畠山氏で初めて管領に任じられた。この基国が安閑天皇陵とこの付近の古墳などを利用して作ったのが高屋城である。
【探索のヒント】2度目の訪問です。車で行くなら「古市」駅前にコインパーキングが多数あるのでそこで停めた方がいいでしょう。天皇陵周辺は民家で道も狭く路駐は絶対できません。わたしも南都銀行の裏のコインパーキングに停めて自転車で回りました。
【駐車場】古市駅周辺のコインパーキング 【最寄の駅】近鉄長野線「古市駅」 【最寄のバス停】近鉄バス「城山」
 
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