@A
B
@高宮―彦根市高宮町【MAP】
浅井長政が合流した上洛軍は6万を超えていた。3日間人馬を休めて観音寺城に向かった。
高宮は中山道Bの宿場である。多賀神社に向かう多賀道の入り口でもあり、それを示す巨大な鳥居Aは一の鳥居と呼ばれる。中山道は東海道に対して東山道とも呼ばれ701年東国支配のために整備された。瀬田を起点に岐阜から長野県、新潟から青森までの街道だったが鎌倉に幕府が開かれると鎌倉と京を結ぶルートに変わった。戦国時代はこの街道を領する北条氏や武田氏は宿を整備した。
【探索のヒント】旧街道なので道は細いので車を停める所はありません。JR「高宮駅」はあるのでそれを利用しても良いでしょう。私は国道8号線にあるホームセンターの駐車場にちょっと停めさせてもらいました。
【駐車場】なし 【最寄の駅】近江鉄道本線「高宮駅」 
 
A愛知川―愛知川町愛知川【MAP】
高宮から移動してきた上洛軍は愛知川の東側に布陣した。信長は観音寺城の支城を自ら検分して回り、観音寺城から目視できる城を攻撃することにした。12日の夕刻、上洛軍は川を渡って攻撃を開始した。
ところで「言継卿記」「江源武鑑」によると箕作城を攻める前の11日、織田軍と六角軍とが愛知川で戦っている。この戦いで織田軍は敗退して一旦兵を岐阜へ引こうとした。これに油断していた六角軍は引き返してきた織田軍の攻撃を支えきれなかった。
【探索のヒント】国道8号線「御幸橋北」を川沿いに曲がり、近江鉄道を越えるとみゆき公園が右手にあります。私が行った時(04.7.20)は工事中だったので左に駐車のできるスペースがあったので車を停めました。箕作城(写真左の山)、観音寺城(写真中央)を一望でき、その時の信長の心意気を少しでも味わえました。
【駐車場】なし 【最寄の駅】近江鉄道本線「五箇荘駅」 【最寄りのバス停】湖国バス「御幸橋北」
 
@A
B
C
B箕作城―蒲生郡五個荘町【MAP】
箕作城には吉田出雲守・建部源八郎・狛修理亮ら3千人の兵が立て籠もった。信長は自ら陣頭指揮をとって城の北を秀吉、東を長秀に攻めさせた。夕方の攻めに箕作城兵は意表を衝かれたが、一度は撃退した。しかし秀吉が深夜夜襲をかけたことから城は降伏した。信長は本陣をここに移して翌朝の観音寺城B攻めに備えた。
「江源武鑑」には六角家の嫡流は観音寺城を本城として箕作城は分家である箕作義賢が守っていたとする。
【探索のヒント】箕作城は近江八幡市にある箕作山の東の山@にあります。本丸には石垣Cがわずかに残っている他、貴船神社の辺りには見事な石垣群Aが続いています。周辺に駐車場はありませんが送電線の鉄塔や貴船神社のそばに駐車スペースがあります。この項目を作るのに「近江の城郭」野暮さんに非常にお世話になりました。この場で改めて御礼を申し上げます。
【駐車場】なし 
 

C観音寺城―安土町石寺 【MAP】
南近江守護六角氏の本城。一筋縄では落すことができない城なので信長は攻撃の目先を支城に変えた。南近江守護職と言っても実態は地方豪族を束ねるほどの力はなく、六角氏を支持する勢力がなくなればたちまち没落するような存在だった。信長は箕作城を攻めるのに観音寺城の押さえとして柴田勝家・池田恒興・森可成を配置した。
六角義賢(承禎)・義弼父子は箕作城落城を知るとさっさと城を捨て甲賀に落ちていったがこれが六角氏の戦法なのである。1487年将軍足利義尚が六角氏討伐に向かったときも祖父六角高頼は城を捨て甲賀に入って、ゲリラ戦で抵抗し長期戦に持ち込み功を奏した。承禎の父定頼は三好長慶に京を追われた足利義晴・義輝を助け三好氏と戦い、北近江で力を付けた浅井氏も警戒しなければならなかった。しかし定頼が死ぬと承禎は浅井氏との戦いに専念するため三好氏と和睦した。
【探索のヒント】お城ファンの間でもベスト10に入る遺構の数々、城めぐり初心者の私でも登るしんどさに見合うだけの城跡です。登口は私が使った桑実寺と観音正寺があります。桑実寺の駐車場は狭いので離れていますが安土城考古資料館のものを利用したほうが良いかも知れません。
【駐車場】観音正寺駐車場または安土城考古資料館駐車場
【最寄りの駅】JR東海道本線「安土駅」
 
@A
D-1和田山城―五箇荘町和田【MAP】
田中治部大輔・山中山城守が守る。安藤守就・稲葉一徹・氏家卜全の美濃勢が和田山城攻略に当たった。「江源武監」と言う書物によると建部源八兵衛・吉田出雲守らが守っていたとある。箕作城落城を知るとこちらも兵が逃げていった。
【探索のヒント】和田神社の裏山@が城跡です。国道8号線「柳瀬」交差点を北西に入ります。直進すると右手に「ツジトミ」と言う工場があるのでそこを左折します。道は細いですが私の車(セフィーロ)で神社の下まで来れます。石段を登りきり更に右の階段を登っていくと碑のある社Aに着きます。この横に山頂へ向かう道があります。
【駐車場】若干のスペースあり 【最寄りのバス停】湖国バス角能線「河曲」
 
@ A
F桑実寺―安土町桑実寺【MAP】
信長の使者の不破光治が立政寺に迎えに来ると義昭は早速岐阜を発ち、21日成菩提院に泊まり、22日桑実寺に入り信長と対面した。
桑実寺は藤原鎌足の長男定恵和尚が開山。中国から桑の木を持ち帰り、ここで日本初の養蚕技術を広めたのでこの名がついた。本堂Aは南北朝に建てられたものである。本堂の横の山道を登っていくと観音寺城に到着する。なお、観音寺城のある
山も蚕が口かららして出すことから名付けられている。
【探索のヒント】桑実寺の駐車場はありますが非常に狭い所です。周辺は田んぼばかりなので路駐もしにくい雰囲気です。そこで歩くのを覚悟でお勧めするのが信長の郷です。十分な駐車スペースがあるのでお勧めです。お寺ではお茶をいただけます。
【駐車場】信長の郷駐車場または桑実寺駐車場
 
@A
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G守山【MAP】
桑実寺を出た信長と義昭は志那まで進んだ。ここから琵琶湖を渡って対岸に向かう予定だったが船の手配に間違いがあり、一日余分にここで過ごすことになった。信長公記で志那と勢多に船の手配をしたとある。観音寺は志那衆を含めてこの付近に影響力を持っていた。観音寺には信長関係の文書が3通残っているが内
一つは上洛前に信長が観音寺と接触を持つためのものだと奥野高広氏は断定している。またもう一通は永禄11年9月の禁制であり今回の上洛戦に対してのものと考えられる。
観音寺は聖徳太子が開基し秦河勝が建立したと伝えられ白鳳時代の寺院の瓦が出土されている。奈良時代の宗派は三論宗。最澄の延暦寺開創とともに天台宗の別格寺院となるが一時廃墟の状態にあった。1408年僧歓雅によって中興、京都普勧寺の末寺となる。
【探索のヒント】寺院というわりに立派な石垣に堀Bを備えて城郭に近いものAがあります。境内には重要文化財の阿弥陀堂や彫刻絵画があります。拝観は要予約です。車でしたら県道26号線(浜街道)草津市の「芦浦」交差点を東へ直進で到着です。寺院前に駐車スペースがあります。またバスならJR草津駅西口から近江鉄道バスの「穴村経由」、「下物行き」「山賀行き」「守山駅行き」で15分乗車、「芦浦バス停」下車、徒歩5分です。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】近江鉄道バス下物線「芦浦」 
 
H三井寺 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
I光浄院―大津市園城寺【MAP】
光浄院は15世紀前半山岡資広が開き代々山岡家が持住となっている。瀬田城主山岡景之の四男景友も還俗するまでは道阿弥、暹慶と称して持住であった。文禄四年(1595)三井寺が秀吉によって所領を没収(闕所(けっしょ))されたが、景友は弟暹実とともに三井寺復興に奔走した。現在の光浄院客殿はこのとき立てられたものである。
【探索のヒント】光浄院は国宝で一般拝観はできません。ところで私が大学生の頃サークルの定期コンパを三井寺の宿坊でやっていました。十数回のコンパで一度もこのあたりを見学していなかったのが悔やまれます。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】京阪京津線「浜大津駅」 京阪坂本線「三井寺駅」

 

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