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@箕輪城―高崎市箕郷町東明屋【MAP】
尾張時代から信長を支えた忠誠心と一向宗や多数の土豪が支配した伊勢を統治した手腕を買い、信長は一益に新領地上野の統治を任せた。信長はすでに57歳になっている一益には悪いと思ったが、東国は徳川家康と北条氏政と同盟し東北の大名は信長に接近を図って来ている状況を考え、北陸方面や中国方面とは違い比較的楽な地域だったので最も信頼する武将の一人一益を派遣した。
一益は新領地統治にあたり信長より「山東法制十五章」を授かり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した。こうして武田家滅亡の直前から信長に接近を図った信州上田城真田昌幸、西上野国峯城小幡信貞はもちろん、武田家重臣内藤昌豊の子秋宣、武田西上野先方衆だった鷹巣信尚・和田信業・安中久繁・高山重成・倉賀野秀景・木部真利・後閑信久・那波宗元・白倉左衛門佐、その他の国人として由良国繁、長尾顕長、大戸直光、長尾憲景、山上道友、浦野重次が一益の与力となった。
箕輪城といえば武田信玄がなかなか落す事のできなかった長野業政の堅城で有名である。在原業平の末裔という長野氏の本姓は石上氏で浜川の石上寺(布留明神)を氏神とし長野郷を本拠としたので長野氏を名乗った。関東管領山内上杉に従い、西上野で着々と力をつけ、1500年ごろ上州長野氏中興の祖といわれる尚業(または業尚)の時に箕輪城が築かれた(1526年尚業の子憲業説もある)。憲業の子業政の代になると周辺の国人衆を束ね山内上杉家随一の勢力となった。
その頃小田原を拠点とする北条氏綱が武蔵へ領土拡大を図り、扇谷上杉氏と戦いとなっていた。1545年扇谷・山内両上杉、古河公方足利晴氏を中心にした関東大連合軍8万が北条方の河越城を包囲した。そして落城寸前の1546年氏康の川越夜襲が決行され連合軍は壊滅、扇谷上杉は当主朝定が戦死して断絶、山内上杉憲政も数年後に越後へ落ちていった。そうなると上州の有力大名長野氏が山内上杉の旧臣の拠り所となる。業政は12人の娘を国人衆に嫁がせ姻戚関係を結んで上杉家無き後の西上野最大の勢力となった。
軍記物では1557年から武田信玄の上野侵略が開始されるが業政の巧みな戦術に翻弄されて4度も失敗に終わる。しかし1560年(1561年説あり)の業政の死を境に信玄に風が吹き始めた。1561年秋小幡景定の国峯城、1563年斎藤憲広の岩櫃城、1564年安中忠政・忠成の松井田城・安中城、1565年倉賀野直行の倉賀野城が武田方の手に落ち、箕輪城は孤立したのである。1566年9月武田軍と長野軍は城外で戦うが長野軍はひと合戦終わると籠城に入った。城兵は1千8百だったが新城主業盛を中心に新陰流の祖となった上泉秀綱、長野主膳、藤井正安、青柳忠家ら長野十六人槍率いる精鋭で包囲する武田軍に抵抗、上杉謙信の援軍を待った。29日武田軍の総攻撃が始まった。大手門、搦手に殺到する武田軍に城兵は鉄砲、弓で応戦する。武田軍は次々と新手を投入、数刻内には城門、城壁に辿り着き、城内への侵入を開始した。藤井正安は搦手付近で武田勝頼を発見、手勢を引き連れて陣を襲ったが原胤元が正安を取り押さえ、その首は勝頼に討たれた。やがて武田軍が本丸に迫ると業盛は御前曲輪に入り、父業政の位牌を前に自刃した。18歳であった。40名がこれに殉じ、残った長野一族は全て処刑された。その後この城は内藤昌豊に預けられた。
【探索のヒント】箕輪小学校の後が箕輪城です。案内板@に従っていくと搦手Aから二の丸の駐車場に行く事になります。今回はその道と反対の小学校の横を通り左へ曲がらず直進する道で行きました。こちらにも「大手虎韜門」の案内板と駐車場があります。箕輪城は榛名山の南に延びる丘陵の端標高280mに築かれた城です。石垣が確認できるのが三の丸Bです。そして最も感動したのが大空堀です。土橋と空堀Cの写真を撮りましたが残念、その迫力は伝わりません。是非ご自分の目で確認して下さい。本丸Dは南北100m東西70mあり周囲には土塁が設けられていました。東側の土塁はその北にある御前曲輪に続くことから本丸と御前曲輪Eで一つの施設になっていたと考えられています。
素人の私が見ても遺構がわかるぐらい非常にきれいに整備されています。ただ現在の遺構はほとんどが井伊直政時代のもので長野氏時代のものとはかなり違っているそうです。
私が車を停めた大手虎韜門駐車場からスタートして案内板に従って大体の遺構を回って戻ってくるのに約1時間。アップダウンも大したことなくお手軽に素晴らしい城跡が楽しめます。本当はもっとゆっくり回りたかったのですが新幹線の時間が迫っていたので断念しました。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りのバス停】群馬バス箕郷又は伊香保行き「城山入口」
A前橋城―前橋市大手町【MAP】
「本能寺で信長死す」の知らせを受けた一益は老臣篠岡平右衛門、津田次右衛門、甥の滝川儀太夫益重を呼びよせそのことを伝えた。驚く彼らに更に一益は上野衆にも正直に話そうと思うと言った。当然益重らは反対、人質を厩橋城に集め篠岡に監視させた上で信長公の要請で上洛することになったと言って出発すべきと言った。しかし一益はこういう大事は隠そうとしてもすぐに人の耳に入るものだからあとで知れた場合、上野衆は「自分たちを信じていない」と心を寄せている者まで離反していく結果になると諭した。
そうして一益は上野衆を城に集めありのままに事態を説明、「信長公という強大な後ろ盾を失った私の価値を決めるのはそなた達である。人質はお返しするので思った通りに行動してもらって結構である」と話した。これを聞いた諸将は驚いたがそれよりも本能寺の変の知らせを受けてすぐに自分達に知らせてくれた事、人質を返すのでその後の判断は各自に任せると言ってくれた事に感激した。それ程迄に自分達を信じている人物に叛く事は絶対にしてはならないと上野衆は一益を支える事を決断した。ただ北条高広はこの一益の行為は上野衆の気を引くための計略だと疑ったと「石川忠総留書」に記録されている。
一益は小田原城北条氏政と鉢形城北条氏邦に信長の死を伝え弔い合戦のため上洛したい旨、使者を送った。「北条五代記」には氏邦に対して「厩橋城を受け取りに参れ」と挑発するような内容だったと書かれている。全く資料は無いがもし一益が上洛を目指すのなら陸路でも海路でも西へ向かいやすい相模へ出ると思う。一益が大軍団なら途中の北条氏が邪魔しても駆逐すれば良いのであるが、上野衆全部を味方にしても数の上で圧倒的に不利な状況で果たして宣戦布告するような手紙を送るであろうかと言う疑問が残る。ここは北条の断交宣言を受けた一益は決戦を覚悟。厩橋城で上野衆が味方につくという感触を持つ。小田原から本隊が到着する前に氏邦を討取るため挑発する手紙を送ったと考えてはどうだろうか。ただ一益もこの戦いの困難さは分かっていたので退路を確保するため、厩橋城に滝川彦次郎、松井田城に津田小平次・稲田九蔵を入れた。
一益は箕輪城は篭もる城としては最適だが政治を行うには不便だったので駅路の駅家に近い厩橋城に拠点を移す事にした。上州の国人衆が人質を連れ一同揃って一益と会ったのはこの時が初めてである。ここで一益は東国のことは全く分からないので不都合の無い限り今まで通り上野国人衆に任せると述べた。これまで上野は北条、武田、上杉の争奪戦に晒され、その都度家を守るため過酷な使役に耐えなければならなかった。そのような経験をした国人衆は一益の言葉に感激し自領の繁栄のため信長の天下布武に進んで協力しようと決心した。
5月上旬一益は国人衆を城に呼んで能を催した。その席で一益も「玉蔓」を舞い、国人衆は織田四天王と謳われた猛将の風流人としての一面に感心した。
15世紀末長野氏の東の拠点として長野方業(固山宗賢)がここにあった城跡を利用して築城した石倉城が厩橋城の前身である。1534年利根川の決壊で城は三の丸を残して崩壊した。残った三の丸を利用して再度建てられたのが厩橋城である。この築城者だが長尾賢忠とするのが多いがこの人物は存在せず正しくは長野賢忠すなわち長野方業である。1551年暮、上杉憲政が北条氏康によって越後へ追われると方業も後を追った。方業の子道安は氏康に従いそのまま厩橋城主に任じられるが間もなく死亡、その子道賢がその後を継いだ。1560年ついに長尾景虎が関東へ出兵、厩橋城を落すと方業を城代とし以降景虎の関東出兵の前線基地となる。1562年方業に謀反の疑いありとして輝虎(景虎)に一族が誅され、北条高広が城代に任じられた。1574年高広が隠居すると嫡男景広がその後を継いで厩橋城を守った。しかし1578年謙信の跡目争い「御館の乱」の乱で景広が戦死すると参戦していた高広は厩橋城に逃げ帰った。翌年武田勝頼の軍門に降り、武田が滅ぶと一益に従った。
【探索のヒント】現在群馬県庁・警察本部が置かれているのが前橋城@のあったところです。度重なる川の氾濫と財政難のため200年以上続いた城は破却され陣屋が置かれました。その後利根川の治水工事が終わり領民からの希望もあったので1863年から5年掛けて前橋城は再建されました。しかしその半年後大政奉還。1871年廃藩置県により廃城となりました。こうした経緯なのか前橋城は市のシンボル的な扱いはされておられず、県庁にある巨大な土塁A以外は町の中に埋没しているみたいでした。
県庁に立体駐車場、合同庁舎にはコインパーキングがあるのでその埋没した遺構をゆっくりと見て回る事ができます。
【駐車場】県庁専用駐車場
【最寄りの駅】JR両毛線「前橋駅」 上毛電鉄「中央前橋駅」
B和田城―高崎市高松町【MAP】
厩橋城に上野の諸将を集め今の状況を話した後、一益は一旦全員を帰城させて改めて和田城に集結するように伝えた。一益はわずか2カ月ほどしか付き合いの無い上野の諸将が果たして自分に味方してくれるかどうか賭けだった。一益やその家臣の心配はやがて払拭された。次々と国人衆が和田城へ参陣してきたのである。
倉賀野城主金井景秀はじめ内藤昌月、小幡重頼、由良国繁、真田昌幸、安中久繁、深谷忠秀、上田朝直、高山重成、木部貞朝、長尾明顕長、杉山本間入道、成田氏長、長根雅楽助らである。上野軍を統括する役目を担ったのは金井景秀である。
その夜軍議が開かれ一両日中に武蔵と上野の国境付近で氏邦軍と戦いになると判断された。軍議の後、兵士達には酒が振舞われ、一益もその中に入って重臣篠岡平右衛門の鼓で能を舞って兵士の士気を高めた。
翌17日夜明けに滝川軍・上野軍は和田城を出て倉賀野城へ向かった。
和田城はその名の通り桓武平氏三浦氏の一族和田氏の居城である。三浦氏と言えば鎌倉幕府成立に尽力した御家人として有名である。1213年侍所別当の和田義盛は執権北条義時を廃するため将軍御所を襲撃するが将軍実朝を擁する幕府軍に敗れ和田一族のほとんどが滅亡した(和田の乱)。だが義盛の子の一人義信(義国の説あり)は上州和田山へ無事逃れ、のちに赤坂へ移った。その後鎌倉幕府が滅び南北朝動乱を生き抜き、義信から6代あとの義信が1428年(1418年説も)和田城を築いた。この頃鎌倉公方と関東管領上杉氏の争いが激化、義信とその子の信忠は上杉方について活躍した。享徳の乱(1455年〜1483年)の最中死亡した関東管領上杉顕房の跡を継ぐため越後守護上杉房定の次男顕定は越後から和田城へ一旦入りそれから鎌倉へ向かったという。和田氏に対する上杉方の信任のほどを窺える。
1530年代北条氏が関東へ触手を伸ばすと上杉氏に従って和田氏も戦ったが、河越合戦と武田軍との碓氷峠の戦いの敗北で上杉氏が没落すると長野業政の娘を迎えて箕輪衆として業政と共に外敵に対抗した。その後武田・上杉・北条が入れ替わり立ち代り上野へ侵入、ついに長野氏が滅びると和田氏は武田家に属する事になった。
和田氏はその後北条氏の配下に入るが秀吉の小田原攻めで前田利家によって和田城は落城、徳川家小笠原氏、保科氏に仕えた。
【探索のヒント】写真が一枚しかないのは前日、東京駅からホテルへ向かう途中デジカメを落とし壊れてしまいました。そこで使い捨てカメラを2個買いましたが残り一枚の時高崎城へ到着、渾身の一枚と相成りました。和田城の跡に井伊直政が高崎城を築き、現在残っている遺構は高崎城のものです。和田城の物としては和田橋にある土塁だけです。高崎城の遺構も土塁や乾櫓、唯一残った東門、堀ぐらいで城内は高崎市役所や公園、音楽堂、病院、学校などが建てられています。
【駐車場】公園内に駐車場
【最寄りの駅】JR「高崎駅」
【最寄りのバス停】市内循環バス前経大線・少林山線・観音山線「市役所前」
C鉢形城―【MAP】
「北条五代記」には一益が信長の弔い合戦のため上洛するので厩橋城を受け取りに来いという書状を受け取った氏邦が一益を倒してそのまま上野を支配してやろうと考え氏直軍が到着する前に出陣したとし、「関八州古戦録」では隣国の一益が挑発しているのに氏直軍の援軍をただ待っているのではみっともないと感じ、とりあえず石山大学助、保坂大炊助を先発隊として派遣したとある。しかし氏邦としてはすでに手切れとなった一益軍が越境して来るかも知れないのを阻止しないわけには行かず、とりあえず氏直の援軍到着まで時間稼ぎするため動員できる兵を投入したのではないだろうか。
北条氏政としては武田攻めの一翼を担い信長の甲州入りには陣中見舞いを贈ったにも関わらず何も得る事ができなかったことに不満を抱いていたかもしれない。武田や上杉と領地争いをした駿河に上野が手に入らなかったばかりか今まで北条家に近い大名が公然と信長に接近しているのも気に入らなかった。しかし現時点の力関係では表面上友好的に振舞っておく必要があった。そんな時本能寺で異変が起こった。この知らせは一益より先に氏政にもたらされたとも言われる。氏政は家康の目が西へ向いている間に上野攻略を済ませてしまおうとした。信長横死の知らせから10日余りかかっているのは家康の動向を窺っていたのかもしれない。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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E神流川 【MAP】
緒戦の金窪城の戦いは圧倒的な戦力差で北条軍に勝利した。猛暑の中の戦いが終わると一益軍・上野衆の兵は続々と神流川に入り水浴びしたり、馬に水を飲ませたりとようやく一息つけた。しかし一益はそうはしておられなかった。すでに氏直本隊の一陣が神流川の2キロ西に着陣し氏直も本庄に到着、さらにその後方の深谷・熊谷にも数万の北条軍が集結していたのである。一益は氏直本隊が戦場に姿を現すのは昼頃と読んだ。
翌早朝、一益軍の氏邦軍への先制攻撃から戦いが始まった。鉄砲隊を前面に配した一益軍は優位に戦いを進めたが氏邦軍も盛り返してきた。この状況に金井淡路守が一益に氏直本隊の到着前に氏邦軍を背後から攻撃し氏邦を討取ってしまおうと提案した。この迂回攻撃を引き受けたのが真田昌幸であった。昌幸は天正8年に沼田城を手に入れたが、一益の関東移封に伴い一益の甥儀太夫益氏が沼田城代として派遣された。しかし沼田はそのまま昌幸に安堵された事からこれを感謝し恩返しにこの大役を買って出た。真田軍は氏邦軍の背後へ回り込むと一気に敵陣に切り込んで蹴散らした。これにより氏邦軍は壊滅、氏邦は戦線から離脱した。
しかし間もなく氏直本隊4万が金窪付近に到着したため、神流川から2キロ武蔵へ侵攻していた一益・上野軍は川のそばまで撤退した。両軍は6百メートルの距離をおいて睨み合いとなった。一益が自軍の3倍近い北条軍にどう対処しようかと思案していた時、北条方からの銃撃に驚いてそれに応戦、ここから再び戦が始まってしまった。戦いは金窪あたりから南へ4キロに及ぶ広域で繰り広げられ、数に劣る一益・上野軍の奮戦で一進一退が2時間ほど続いた。この状況を打破するため氏直は鶴翼の陣を敷いた。これを見た一益は魚鱗の陣で応戦しようとした。だが朝からの戦いで疲労していた上野衆はしばらく休息させ二陣とし、一益は益氏、篠岡平右衛門、津田次右衛門・八郎五郎・理介、岩田市右衛門・平蔵、栗田近右衛門、太田五右衛門、富田喜太郎、牧野伝蔵、谷崎中右衛門、壁野文左衛門、稲田九蔵ら3千の兵で北条軍に突き進んだ。対する北条勢は松田憲秀、大道寺政繁、遠山友政、垪和氏続、福島伊賀守入道瞬、山角康定・定勝、依田大膳、南条山城守、清水政勝、伊勢定運、松田康郷らの精鋭5千が迎え撃った。勢い盛んな一益軍に対し北条軍は後退しはじめた。これを追って一益軍は敵陣深く入り込んだ。しかしこれは松田・大道寺・垪和・福島の計略だった。長く伸びきった一益軍の両側面から包み込むように北条の伏兵が突如現れ完全に一益軍を包囲した。
篠岡はこの絶望的な状況を何とか克服すればまた武運も開けると考え、一騎討ちではなく弓鉄砲、槍で敵を蹴散らすよう全軍に指示した。ぶつかり合う両軍の鉄砲の音、矢の風切り音、太刀の鍔音、怒声が大音響となって辺りを覆い尽くした。しかし劣勢の篠岡は最早これまでと本陣の一益に「殿には上洛という大きな仕事があります。我々が少しでも敵を食止めている間に厩橋城へ戻って支度をしてください」と伝えて欲しいと津田兄弟を遣わした。そしてその役目を無事終えた両人は手勢を連れて戦場に戻り、真丸に陣形を取って敵を散々切り対していったが氏直は次々と新手を投入、両名は戦死した。この他に篠岡、栗田、太田、岩田兄弟らも討死した。一益の次男八丸は敵に捕らわれ連行されようとしたが伊勢神戸の古市九郎兵衛がこれを追いかけ一人は斬り殺し、一人は深手を負わせ、もう一人は逃げ去ったため無事一益の元へ送り届けられた。
資料によってこの戦いの日について18日説、19日説、18・19日説があり18・19日説が通説である。死傷者数はいつものことながらバラバラで滝川軍3千のうち2千が戦死(北条五代記)から5百騎が戦死で過半が負傷(北条記)とするものまである。また上野衆は一益軍の劣勢と北条の大軍に戦意を喪失して次々と戦場から姿を消していったとする物もある。
【探索のヒント】国道17号線「神流川橋」の西側に神流川合戦の碑@(高崎市新町)があります。しかし交通量も多く駐車スペースも無いので車で行くとちょっと難儀します。自衛隊横の駐車場を拝借するか河川敷ヘ行く道へ停めるか、歩くのを覚悟して「マルシェ」か運動公園の駐車場を利用するかです。
この戦いでは金久保や勅使河原が戦火で焼き尽くされました。唯一残っているのは大光寺総門A(埼玉県上里町勅使河原)です。そこには矢玉の痕Bも残っています。国道17号線「神流川橋」を埼玉県側へ渡った最初の信号を南へ。高崎線の高架をくぐってすぐ右に現大光寺があります。本堂裏に総門があります。1215年武蔵七党の丹党勅使河原権三郎有直が創建、勧進開山は栄西です。江戸時代、神流川の両岸には渡しの目標として常夜灯(見透燈篭)が建てられましたがそれが町指定文化財として大光寺に残っています。
この他この戦いの伝承地がいくつかあります。金剛寺は兵糧を作った場所。勝場は北条軍が勝鬨を上げた場所。6月20日に北条氏直・氏邦が両軍の戦没者を弔うため法要を営んだのが浄泉寺です。滝川軍の陣場は陣場、兵糧を用意した所は膳棚、馬の馬脚を冷やした所は馬堀。滝川も滝川軍が陣名を張った場所ということでこの名になったそうです。
神流川合戦碑【MAP】:【駐車場】なし【最寄りの駅】JR高崎線「新町駅」
大光寺【MAP】:【駐車場】大光寺駐車場 【最寄りの駅】JR高崎線「新町駅」
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F倉賀野城−高崎市倉賀野【MAP】
一益は全軍に退却を命じたが多くの重臣を失ってしまった。夕方近く敵陣を抜け神流川に辿り着いた一益を金井淡路守秀景が手勢5騎を伴い待っていた。淡路守は一益らを倉賀野城へ迎え、奥方の妙に茶を点てさせた。淡路守は息子の五郎太と六弥太、それに家臣74人を失った。一益は自分の力が足りなかったせいで大事な子供を失わせたことを深く詫びた。一益は直臣の栗田金左衛門、神戸新九郎、富田喜太郎・新左衛門を淡路守の側近に置いてもらい上野衆への伝達事項は全て淡路守を通して行っていた。
厩橋城へ戻った一益は城下の禅寺に金百両を送り今合戦での戦死者名を書き出し、その者達の供養を頼んだ。その後上野衆を城に呼び、その働きを労うために酒宴を開いた。一益は鼓をうち謡をうたい宴会明け方まで続いた。その中で一益が謡曲「羅生門」の一節
武士(ツワモノ)の交り頼みある仲の酒宴(シュエン)かな と謡うと淡路守が同じく謡曲「源寺供養」の一節
名残今はと鳴く鳥の と返した。
宴の最後一益は一同に「私は信長公の後継ぎ問題を解決しなければならない。人質は約束通り全てお返しする。自分としてはこの地に戻ってくる事ができれば御一同に異論がなければ力を貸していただいて、今一度北条と一戦交えたいと思う。しかし自分が戻ってくる事がかなわなければ遠慮なく北条に従ってもらいたい」と話し、淡路守には吉光の脇差をその他の城主には秘蔵の品々を贈った。
倉賀野城はこの戦いでは武器弾薬の補給と負傷者の救護の前線基地としての役割を果たした。金井淡路守は倉賀野16騎と呼ばれた重臣の一人で河越合戦で城主倉賀野行政が戦死したあともこの城を守りつづけた。やがて武田信玄の上野侵略が開始されると箕輪城長野業政は防衛拠点として倉賀野城を重視した。1559年の信玄出陣に合せ淡路守は武田へ寝返った。その後度重なる信玄と北条氏康の上野侵攻についに1565年倉賀野城は落城した。1570年淡路守は大熊朝秀と交替して倉賀野城主となった。一益が伊勢に戻った後、淡路守は北条に属し秀吉の小田原攻めの時は小田原城に入り倉賀野城には少数の兵しかいなかった。小田原城落城後の1590年7月死去。
武蔵七党児玉党の秩父高俊がここへ移り倉賀野氏を名乗ったのが始まり。烏川の崖の上に本丸を置いた悌郭式曲輪で南北4百m東西9百メートルあった。
【探索のヒント】国道17号線「倉賀野町交差点」の西の信号を南へ入ります。JRの踏切を越え右側の道を直進。信号の交差点も直進。最初の十字路を右へ曲がると右に倉賀野神社@があります。駐車場もあるので車でも大丈夫です。倉賀野神社が倉賀野城の西の端にあたり神社の西の細い道は堀跡です。この道を再び十字路のほうへ戻り、そのまま直進すると右折する道と斜めに走る道とがあるので斜めの道へ入ります。最初の左に入る道の先にあるのが井戸神社Aでこの辺りが二の丸になります。この付近は住宅街で道も細く、唯一車を停める事ができるのがここぐらいです。神社を西へ通り抜け烏川沿いの舗装された道の向こうにある木の茂みBが本丸跡です。今では雁公園となっていますが、でっかい碑Cが建っているのですぐに分かります。この辺りの道は堀を埋め立てたうえにあるので曲輪の形は大体確認できますがそれ以外は特に遺構はありません。
【駐車場】倉賀野神社駐車場 井戸神社駐車場
【最寄りの駅】JR高崎線「倉賀野駅」
【最寄りのバス停】高崎市市内循環バスぐるりん新町線「群馬銀行前」
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G首塚八幡宮(高崎市新町1995)と胴塚稲荷(党丘市岡の号)
北条方が戦死した兵の首の検分をした後埋葬してその霊を弔った首塚八幡宮は実見塚と言う字名になっている。昔から付近の住人はこの無縁仏を祀る祠を首塚と呼んで首から上の病に効くという事で参拝している。
胴塚稲荷は古墳で一益軍の戦死者を葬ったと言われる。
【探索のヒント】JR高崎線「新町駅」の東、国道17号線「笛木町交差点」を南へ入ります。「堂場郵便局」を左手に見て直進、関越自動車道の手前に「←首塚八幡宮」の表示があります。左折して少し進むと右にビニールハウスがあります。その前に首塚八幡宮@があります。路駐になってしまいます。
胴塚稲荷Aはさっきの「←首塚八幡宮」の標識の下に昔酒屋さんだった建物があり、その横の細い道の正面にあります。ここでは駐車できないので首塚前に駐車して徒歩でここへ来たほうが良いと思います。
首塚八幡宮【MAP】:【駐車場】なし
胴塚稲荷【MAP】:【駐車場】なし
【最寄りの駅】JR高崎線「新町駅」
【最寄りのバス停】関越交通バス「下郷」
H松井田城【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
I碓氷峠【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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