山崎の戦い
―明知光秀の残照―
経過
1582年6月2日早朝織田信長・信忠父子の宿所を急襲、自刃に追い込んだ明知光秀京都の治安維持と畿内の諸勢力の掌握に努め、5日安土城へ入った。そこで安土城に残った金品を家臣に分け与えた。この日奈良興福寺から贈物があった。7日誠仁親王の使者として吉田兼見光秀と面会、朝廷と兼見自身からの祝品を送った。8日安土を発った光秀9日京都白川吉田兼見の出迎えを受け兼見邸に入り朝廷からの使者を向かえる。この辺りで光秀羽柴秀吉備中高松城から京都へ戻ってきていると言う知らせを受けたらしくこの日宮津城@細川藤孝翌10日郡山城筒井順慶に合力を依頼している。
10日光秀京都を出発、洞ヶ峠A順慶の参陣を待つが一向に姿を見せなかったので11日下鳥羽へ陣を移し秀吉軍を迎え撃つ準備に入った。12日山崎Bでの小競り合いのあと光秀軍秀吉軍・織田信孝軍連合軍13日本格的な戦闘に入った。両軍は初め互角の戦いを繰り広げていたが池田恒興・加藤光泰隊光秀本隊の側面を突いたのをきっかけに戦いは秀吉方の勝利となった。
光秀は何とか戦線を離脱、勝竜寺城に入ったが兵の逃亡が相次ぎ仕方なく坂本城へ脱出を計った。しかし小栗栖で落武者狩りの土民の襲撃を受け自刃して果てたC。54歳(56歳説あり)であった。14日明智軍の後詰の明智左馬助秀満軍近江に侵攻して来た堀秀政軍が打出の浜で戦うが3百騎を失い坂本城へ退却した。それを追って堀軍坂本城を包囲、秀満は城内の金品を堀軍に委ねたあと光秀の妻子を殺して自刃、名城坂本城も落城した。ここに安土城・坂本城という当時日本で最も壮麗と言われた2城が同時に歴史上から消え去った。
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