@宮津城 【MAP】
【探索のヒント】
 
 
@A
B
A洞ヶ峠―京都府八幡市
この日の朝、上洛途中だった筒井順慶は本能寺での変事を聞くとすぐに大和郡山城へ戻った。城には続々と配下の国人衆や家臣達が集まり評定が開かれたが結論は出なかった。5日光秀の使者として藤田伝五がやってきた。光秀に味方して欲しいということである。松永久秀と大和の覇権を争っていた時、信長の支援を取り付けてくれたのが光秀である。光秀には恩はある。しかし光秀に合力して大丈夫なのであろうか。かつて久秀との戦いに敗れ流浪の身となった辛さを知る順慶は迷った。その順慶の元に9日秀吉から光秀を討つために現在東へ向かっているという知らせが入った。考えてみれば信長・信忠がいなくなったがまだ織田信孝も信雄もさらに織田軍団の主力は健在なのであるから結論を出すのは早計である。順慶は秀吉に光秀から頻繁に誘いが来ていることを伝える使者を送った。
10日洞ヶ峠に陣取る光秀は再度藤田伝五を順慶の元へ送った。しかし伝五の苦労は報われず順慶から返事はもらえなかった。実はこの時順慶は家中の村田某・今中某を使者に立て秀吉に味方する誓紙を交わしていたのである。失意の中、光秀の陣へ戻る伝五が木津に差し掛かったとき順慶に呼び戻された。二人の間にどのような会話があったのかは不明であるが結局、順慶は城から動く事は無かった。15日醍醐の秀吉の陣に現れた順慶に秀吉は激怒した。しかしこれから先の天下盗りに大和の仏教勢力を味方につけている順慶の存在は欠かせないことを知っている秀吉は順慶を許した。
「洞ヶ峠を決め込む」とは日和見的な態度を指す言葉である。順慶が洞ヶ峠に陣を張って合戦の成り行き次第で光秀につくか秀吉につくかを決めようとしたからだとされていたが事実は光秀が洞ヶ峠に陣を張り順慶を待っていた。でも場所が違うとはいえやはり順慶が事の成り行きを見守っていたのは事実だからこの時の順慶は日和見といわれても仕方ないであろう。
【探索のヒント】洞ヶ峠は東高野街道の吉井と八幡福禄谷の途中にあった峠です。現在NTTの無線中継所が建っている地点@です。ここからは男山八幡宮から天王山を見る事Aができます。当然のことながら中継所へは入れませんがこの近くまでは行けます。中継所へは国道1号線「八幡洞ヶ峠交差点」から北西へ向かうバイパスの右側にある住宅街から入って行きます。バイパスから住宅街へ入る階段があります。住宅街に入るとひたすら右へ向かって下さい。でも特に史跡があるわけではありません。ただここが頂上と分かるだけです。車で行くと住人の邪魔になると思うので私は円福寺霊園の近くに路駐して徒歩で行きました。
史跡としては
筒井順慶陣所跡の碑Bがあります。これは「八幡洞ヶ峠交差点」の南東の角の看板の間にあります。ここは大阪府枚方市です。順慶はここに来ていないし洞ヶ峠は京都府八幡市だし全くでたらめな碑になっています。
洞ヶ峠【MAP】 筒井順慶陣所跡【MAP】
【駐車場】基本的になし 円福寺駐車場を利用できるかも
【最寄りの駅】京阪電車「樟葉駅」
【最寄りのバス停】京阪バス30・31・NS系「福禄谷」
 
@A
B

C
DE
御坊塚
B天王山― 【MAP】
洞ヶ峠を下りた光秀は一旦兵を下鳥羽へ下げた。そして兵站基地として淀城を改修させた。本来なら主戦場となる山崎を見下ろせる天王山に陣地を築くべきであろうが光秀軍の与力だった細川藤孝・筒井順慶・中川清秀・高山右近・池田恒興軍が中立か秀吉についたため圧倒的に戦力で劣り、天王山に兵を配備する余裕がなくなっていた。そこで光秀が採ったのが天王山と淀川に挟まれた隘路山崎で羽柴軍を待ち構えると言うものだった。光秀は円明寺川の東に陣取った。先陣は斉藤利三・柴田源左衛門と阿閉貞征の近江衆5千。右翼(山側)に松田太郎左衛門・並河掃部ら丹波衆2千。右備え(本隊右翼)伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門らの旧幕府衆2千。左備え津田与三郎の2千。光秀は勝竜寺城から御坊塚に進み兵5千で待機した。
一方の秀吉軍は策謀をめぐらし味方につけた高山右近を先陣として山崎の町を占拠して街道を封鎖、右近に先陣の座を奪われた中川清秀は天王山を占拠した。この両軍で兵は4千5百。それに堀秀政隊も続いた。羽柴軍の左翼(山側)は羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治、右翼(川側)池田恒興5千・加藤光泰・木村隼人・中村一氏、本隊秀吉は天王山の麓に陣を張った。13日正午を過ぎて織田信孝と丹羽長秀の7千が合流した。
夕刻近い午後4時ごろ戦いは明智軍の攻撃から始まった。光秀は松田太郎左衛門に「お前はこの地に詳しいから天王山を奪い取って欲しい。その後、鉄砲・矢を討ちかけ麓の敵を撹乱して欲しい」と命じた。松田・並河隊の猛攻に中川隊が応戦した。それを見た秀吉はすぐさま左翼を守る秀長・官兵衛・神子田隊を援軍に差し向けた。麓では右近隊に加え信孝隊・長秀隊の攻撃を利三・津田与三郎らが必死で応戦していた。この陣形を見て秀吉は恒興に川を上り光秀の軍の側面を攻撃するよう頼んだ。恒興は加藤光泰・木村隼人・中村一氏を連れ川を渡って明智軍の側面を突いた。これには対応できない光秀軍は劣勢となった。これを挽回しようと光秀が動こうとした時、御牧三左衛門の使いが「我が殿が敵を食い止めている間に勝竜寺城へお戻りくだされ」と伝えた。躊躇している光秀に近習の比田帯刀が光秀騎乗の馬の轡に取りすがって退却するよう懇願した。仕方なく光秀は勝竜寺城目指して退却した。
【探索のヒント】天王山@はお手軽なハイキングコースとして有名です。宝積寺から山頂Aを目指しますがJR山崎駅から宝積寺までの坂がかなりきつく(私は車で行きましたが)大変だと思います。車は宝積寺の駐車場に停めましたがそれほど多く停めることはできません。先にも書いた通りハイキングコースなので迷わず山頂へ登って行けます。
山頂までに山崎の戦いをテーマにした
陶版画Bが五個所にあります。解説文は堺屋太一氏によるものです。あと山頂まで山崎の戦いに関する物と言えば途中にある旗立松C碑Dぐらいです。秀吉が味方の士気を高めるために千成瓢箪の旗印を掲げた老松をこう呼びました。その木は枯れて現在は6代目です。ここには旗立松展望台と青木葉谷展望台がありそれぞれ京都方面と大阪方面が展望できます。
山頂は整備されて広場になっています。土塁や礎石がありますが今回の戦いのものではく応仁の乱のとき、西軍山名宗全の次男にも関わらず東軍についた是豊が築いた城です。その後赤松政則、その家臣浦上則宗が城を守りました。このいずれの城主の時も山崎の住人の協力がなくては城は持たなかったそうです。ちなみに下山時、道を間違って
山崎聖天Eの方へ降りて来たのですがここに秀吉が本陣を置いたと言うのを聞きました。
旗立松:【MAP】 山崎城:【MAP】 山崎聖天:【MAP】
【駐車場】宝積寺駐車場利用
【最寄りの駅】JR東海道本線「山崎駅」 阪急電車京都線「大山崎駅」
●御坊塚:
【MAP】
 
@
A
B
C光秀の最後
山崎の決戦はわずか2時間ほどで終わった。秀吉の敵は絶対に逃がさぬようにとの命令のもと光秀軍の兵は掃討されていった。亀山城を目指した兵を追った高山・中川隊はそのまま城を占拠した。
勝竜寺城に逃げ込んだ光秀は何とか近江に温存している兵と合流しようと雨模様の夜陰に紛れて城を脱出した。従うのは溝尾勝兵衛と近習合わせて13騎。京の周辺は敗残兵の捜索で秀吉軍が満ちていたので光秀たちは街道を避け畦道や薮の中を進んだ。そして大亀谷から桃山の北の山道を越えて小栗栖の竹薮を移動している時、薮から不意に突き出された竹槍が光秀のわき腹を突いた。何事も無さそうな様子の光秀だったが300メートルほど行った所で落馬した。慌てて駆け寄る勝兵衛は光秀が瀕死の傷を負っていることを知った。光秀もそれを悟り勝兵衛に介錯を命じた。勝兵衛はそれに従い光秀の首を落とすと近習二人が殉死した。勝兵衛はその首を鞍覆に包んで土中に隠しその場から離れた。光秀に槍をつけたのは落武者狩りをしていた中村長兵衛と言う農民と言われる。翌朝村人により首のない死体と隠された首が発見された。その首は17日に本能寺に晒された。
【探索のヒント】光秀が襲撃され最期を迎えた場所は明知薮@と呼ばれは本経寺(伏見区小栗栖小阪町)の裏に史跡があります。府道7号線を観月橋方面から来て「桃山町西尾交差点」を右へ向かわず直進します。「小栗栖森本交差点」を過ぎて左後方へ行く道へ入ります。「本経寺・明智薮→」の案内に従って右へ進みます。この付近は道が狭いので路駐はできません。右に再び「本経寺・明智薮」の表示がありますが無視してそのまま直進、右に本経寺の駐車場があるのでそこに駐車します。ここから敷地内を歩いてさっきの「明智薮」の案内板の所へ戻ります。
光秀のとその一族の墓A
は坂本の西教寺にあります。西京寺は信長の延暦寺焼き討ちで焼失しましたが坂本を本拠とした光秀により再興され菩提寺とした縁で墓がこちらでできました。坂本観光には外せないポイントなので駐車場も完備しています。
国道161号線沿いの都市公園湖岸緑地北大津地区の少し北、ガソリンスタンドの斜め向いで坂本城の本丸と二の丸の境目ぐらいにあたる場所に
明智塚Bというものがあります。由来としては坂本城築城の時、本家土岐氏から贈られた宝刀を城の守りとして埋めた跡とか落城時に郷義弘作の光秀の脇差を埋めた場所とか一族の墓所といわれています。
●明知薮:【MAP】
●西教寺:
【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】京阪石山坂本線「坂本駅」
【最寄りのバス停】江若バス日吉台線「西教寺」
●明智塚:
【MAP】 【駐車場】都市公園湖岸緑地北大津地区駐車場
【最寄りの駅】京阪石山坂本線「松ノ馬場駅」
【最寄りのバス停】江若交通浜大津線「下阪本」
 
@A
BC
D
D坂本城落城
光秀は居城の坂本城のほか占拠した安土城と長浜城に予備の兵を残していた。安土城には明智秀満が詰めていた。14日払暁秀満のもとに光秀敗北の知らせが入った。秀満はすぐさま援軍として安土城を出発した。しかし瀬田まで来てつい最近架け直した橋が再び山岡景隆によって落されていた。これを修復してようやく大津に到着したとき安土城奪回を目指す堀秀政軍2千と札の辻で遭遇した。秀満の手勢はわずかでたちまち3百騎が討取られてしまった。
これ以上は進めぬと思った秀満は坂本城へ逃げるため愛馬大鹿毛に跨ったまま琵琶湖へ入っていった。堀隊の兵士は岸に立って「溺れ死ぬぞ」と囃し立てて見物していたが予てより琵琶湖の深さを知っていた秀満は巧みに手綱を操り見事柳が崎まで直線距離で2キロほどを渡り切った。これが有名な「左馬助湖水渡り」である。上陸地点の松に馬を繋ぎ一息入れ、堀隊が5百メートルほど近づくと再び馬に乗り坂本城へ向かった。
坂本の町に地獄行きか極楽行きかを決める十王を祀る十王堂があった。秀満はここまで活躍した愛馬を生かそうと十王堂の格子に馬を繋ぎ「この馬が秀満と湖を渡った馬である」と記した紙をそこに残した。この馬は秀吉に献上され賤ヶ嶽の合戦では美濃大返しに使われたがびくともしなかった。また小牧長久手の合戦でも活躍したと伝えられる。
15日堀隊が坂本城を包囲した。すでに城には戦力はなく秀満は自決を決意した。しかし城内には安土城から接収してきた「不動国行の太刀」「二字国俊の刀」「薬研藤四郎の脇指」「ならしばの肩衝」「乙御前の釜」「餌ふごの水さし」「虚堂の墨跡」等など名品があった。秀満はこれを失うのは偲びがたいと考え天守に全て集め、目録を作り夜具で包んで帯にくくりつけた。そして包囲する兵に「我らはここで自害する決断をしたがこれらの名物はいずれも後世に残すべきものである。何卒将軍様の若君に渡して欲しい」と伝え天守からそれらを下ろした。次に小姓を呼んで身に付けていた白練雲龍の具足羽織と二の谷の甲を渡し「これらを西教寺に持っていって只今秀満は自害したと伝えて欲しい。そして百箇日までつるしておいてほしい」と頼み金子百両を持たせた。こうして全てを片付けると秀満は光秀の妻子それに自分の妻を刺し殺した後、天守に運び込んでいた焼け草に火を放ち腹を十文字に切り裂き自決した。46歳であった。
秀満は左馬助と言う官職名が記録されているものもあるが正しくは弥平次である。光秀の家臣三宅藤兵衛または秀朝の子供とも言われる。三宅弥平次と名乗っていたが天正6年荒木村重に嫁いでいた光秀の娘(=光秀の叔父光廉の娘)と結婚して明智姓と成る。
光秀の重臣斉藤利三は17日堅田に潜伏中見つかり逆さ磔の末、斬首。その首は光秀の首と一緒に本能寺に晒された。光秀を介錯した溝尾茂朝は坂本で自刃。光秀の妻熙子の父方の妻木一族も自刃。光秀に呼応して長浜を占領した阿閉貞征は嫡男貞大と共に秀吉によって滅びる。京極高次は阿閉と一緒に逃げたが元家臣の堀秀政に助けられた。佐和山城を奪った若狭の武田元明は一年後誘殺された。
【探索のヒント】左馬助湖水渡りのスタート地点@は琵琶湖文化館前の柵の内側にあります。松ヶ崎湖畔公園へ行く左手前の駐車場に入った正面にある松が左馬助が上陸後小休止のため馬を繋いだといわれる駒繋ぎの松Aです。
他のページでも紹介していますが坂本は焼き討ち・光秀関係の史跡がたくさんあります。重複してしまいますが紹介します。西教寺には光秀一族は勿論、妻の
熙子のお墓B・熙子の実家妻木一族の慰霊碑Cもあります。天台宗僧による法華経説法の戸津説法で有名な東南寺には坂本城落城で死んだ人々を供養する首塚が二つDあります。近くのお寺で坂本城発掘時に出てきた幼児の地蔵を集めたものだとも聞きました。この方子供の時、よく上へよじ登っていたそうです。
●左馬助湖水渡り入水地点:【MAP】 【駐車場】なぎさ公園駐車場
【最寄りの駅】京阪電車石山坂本線「島ノ関駅」
【最寄りのバス停】京阪バス・近江鉄道「商工会議所前」
●上陸地点:
【MAP】 【駐車場】松ヶ崎公園駐車場
【最寄りの駅】JR湖西線「大津京駅」【最寄りのバス停】江若バス浜大津線「松ヶ崎」
●西教寺:
【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】京阪石山坂本線「坂本駅」
【最寄りのバス停】江若バス日吉台線「西教寺」
●東南寺:【MAP】
 
@A
B
C
D

E
明智光秀余談
事実がどうであれ光秀を語る上で絡んでくるのが天台宗の僧で徳川家康のブレーンだった南光坊天海である。1643年に死去。享年105歳とも言われる。光秀同様その前半生の詳細が分かっていないため様々な角度から見て同一人物ではないかと推測している人たちがいる。また筆跡鑑定から光秀ではなく秀満ではないかとか光秀と秀満で天海を演じていたのではないかという人もいる。
1588年から武蔵国無量寿寺で修行していた天海は1590年北条氏滅亡で関東へ移って来た徳川家康と初対面した。しかし家康が天海を重用するのは1608年荒廃する延暦寺の再興を天海に託してからである。金地院崇伝と共に家康の政策決定に深く関わった。家康の死後、崇伝は家康を「明神」として祀ろうとするのに対し天海は自分が考え出した「山王一実神道」に基づいて「権現」として祀るべきだと主張、秀吉を祀る「明神」は縁起が悪いということで天海に軍配が上がりこれ以降崇伝は表舞台から消えてしまう。
この天海が光秀と同一人物とされる最大の原因は光秀の首が確定されていないからである。落武者狩りで絶命した光秀とそれに準じた家臣―進士作左衛門と比田帯刀とされるが細川家に召抱えられたとの記録あり―の遺体が翌朝発見されるが二人は顔の皮が剥がされ人相が分からず隠されていた首も秀吉の元に着いたときには腐敗が進んでこれも誰か分からなかった。
信長同様、遺体がないので生存説が提唱されるに至った。岐阜県美山町には光秀がここへ落ち延びて「荒深小五郎」と名を変え時が来るまで隠れていた。そして関が原合戦が勃発。今こそと光秀は家康に味方するため一族郎党を引き連れ村を出発した。ところが途中の薮川が増水していて馬に乗って渡ろうとした光秀は流されて溺死したという伝説がありその墓もある。自称光秀の末裔の方がこの墓を守っている。
【探索のヒント】天海が比叡山に構えた坊跡@は東塔の第3駐車場脇にあります。死後慈眼大師の号を賜りその廟所は滋賀院門跡の北に慈眼堂Bとしてその墓Aはさらに北の墓地にあります。ところで光秀生存説のもう一つの証拠とされるのが飯室谷にある松禅院Eに寄進された石灯籠です。「奉寄進 願主光秀 慶長二十年二月十七日」とあるそうです。初めは慈忍和尚の墓所Cに横にあったのですが松禅院の庭に移されました。門に「参拝者以外立ち入り禁止」の立札に怖気づいて覗いただけでした。諦めて戻る途中ふと見上げると何やら古めかしい石灯籠を見ました。写真は撮りましたが自信が無いので掲載は辞めました。ところで慈忍和尚とは19代天台座主だったが47歳で死去した。その後「一眼一足」の妖怪となり夜な夜な鉦を鳴らして比叡山を歩き回り、怠ける修行僧を戒めていったとのことです。その姿は東塔総寺坊で拝見できます。飯室谷へは徒歩または車で行く以外手がありません。西教寺の前を走る県道47号伊香立浜大津線をひたすら道なりに北へ向かいます。住宅街を抜け山裾を這うように道は続きます。徒歩なら途中「松禅寺近道」の立札がありここから山道を進むと慈忍和尚の墓所へ到着、野面積みの小道を進みます。車の場合そのまま飯室不動堂まで車一台が通れる道を進みます。待避所は何箇所かあるので安心して下さい。飯室不動堂には駐車場があります。不動堂横の拝殿の前から松禅院へ行けます。私は自転車で行きました登り道が急で西教寺前から約40分かかりました。
●天海僧正住坊跡:【MAP】 【駐車場】比叡山ドライブウェイ東塔第三駐車場
【最寄りの駅】比叡山坂本ケーブル「ケーブル坂本駅」
●慈眼堂:
【MAP】 【駐車場】滋賀院跡駐車場または大宮川観光駐車場
【最寄りの駅】京阪電車石山坂本線「坂本駅」 JR湖西線「比叡山坂本駅」
【最寄りのバス停】江若バスケーブル坂本行「ケーブル坂本」
●松禅院:
【MAP】 【駐車場】横川飯室不動堂駐車場

 

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